突発性運命5
不意に縮められた距離に驚いて、ロックオンは咄嗟に後ろにずり下がった。勢い良くそうした為に、背中にドアが当たり、派手な音を立てる。
我に返って顔を上げると、少し傷付いたような顔のアレルヤが見えた。
「そんなに、逃げないで下さいよ。ロックオン」
「ア、レルヤ……悪い、そんなつもりじゃ」
「いえ……ぼくが悪いんです。すみません……」
悲しそうに俯くアレルヤに、罪悪感が込み上げ、ロックオンは慌てて声を上げた。
「待てよ、アレルヤ。俺はその……こう言うことに慣れてないだけだ」
彼らには彼らのルールのようなものがあるのだろう。ハレルヤだって、初対面であんなことをしたのは、アレルヤとそう言う関係を築いてきたからだ。それがいくら慣れないことでも、頭から否定したくない。それに、それが今の自分の仕事だ。
「だから、逃げたって訳じゃ……」
何となく、下手な言い訳だと思いながら告げた言葉だったけれど、アレルヤは目を輝かせた。
「本当に?」
「ああ……」
ぎこちなく頷くと、彼はロックオンが逃げないかを確かめるように手を伸ばして、そっと頬に触れた。そうして、頬に掛かっていた髪の毛を絡め取るように指を動かすと、アレルヤはロックオンの耳元に唇を寄せた。
「じゃあ、慣れるまでしましょう」
「……っ」
いつもより低めにささやかれる声に、びくっと体が強張る。
「アレル……」
呼び掛けた声は、彼の唇に塞がれて途切れてしまった。こうするのは、まだ二度目だ。いや、もう二度目。ぐっと押し付けられた温かい唇は、一瞬強く吸い付くように動き、そしてすぐ離れた。
「もっと、沢山」
「んっ、ぅ……っ」
けれど、うっとりと、何かに酔ったように彼は呟き、また触れ合う。
(―アレ……ルヤ)
ゆっくり差し入れられた濡れた舌先を拒絶することも出来ず、歯を立てることも出来ず、ロックオンは小さく息を飲んだ。ただ、口付けが深くなる度、何だか妙な感覚に捕らわれ、身じろぐことも忘れてしまった。
翌朝。
夜に何となく寝付けなかったせいで、ロックオンは盛大に寝坊をしてしまった。アレルヤのせい、だろうか。
ともかく、雇われている身で、あり得ない失態だ。でも、誰も咎めるものもいなければ、起こしに来る者すらいない。だいたい、ここの主人だって食事以外は書斎とやらに籠もって出て来ないし。一体何をやってこんなに金持ちになったんだろう。いや、この屋敷から見ると、どう考えても由緒あると言う感じだし…昔からそう言う家柄なのだろうか。
とにかく、ベッドの上で飛び起きたロックオンは慌てて着替えをして、カーテンを開けに窓に寄った。
ふと、窓の外を見やると、遠くに見える門に、使用人の一人が立っていた。外にいる郵便配達の男から、手紙を受け取っているように見える。
(手紙、か)
あれが自分宛で、妹のエイミーからのものだったら、どんなにいいだろう。そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。
結局、まだ外出の申請はしていない。双子のことも気がかりだ。彼らが学校へ行けば、その間に少し自由な時間が出来ると思ったのも事実だ。それでクビになったりしなければいいけれど。
それはそうと、朝食を食べ損ねてしまったので、何か残り物でももらえないだろうか。そんな期待を抱いて厨房へ行くと、ハレルヤとばったり鉢合わせた。
「ハレルヤ?何だ、お前も寝坊か」
「お前こそ……」
「アレルヤはどうした」
「学校行ったぜ、朝早くな」
「え……」
意外な言葉に、ロックオンは目を見開いた。
「マジか、本当に行ったのか?!」
「うるせーな、本当だよ」
ハレルヤはコックが切り分けたチーズをまな板から直接掴んで行儀悪く口に放っると、面倒臭そうに吐き捨てた。どうやら、食事に出席しなかった日はいつもこうして空腹を満たしていたらしい。本当に、猫かなにかのようだ。ロックオンも少しおこぼれに預かりながら、溜息を吐いた。
「お前は、行かなかったんだな、ハレルヤ」
「ああ?別にいいだろ、余計なお世話だ」
「まぁな、それは解かってるさ」
「なら黙ってろよ」
「いーや、そうはいかねぇ」
「……?」
眉を寄せるハレルヤに、ロックオンは不適な笑みを浮かべてみせた。
「俺が教えてやるよ」
「はぁ……?!」
「ほら、来いよ」
「あ、おい、こら!!」
ぎゃあぎゃあ喚いて抵抗するハレルヤの肩に腕を回すと、ロックオンは半ば引き摺るようにして彼を部屋へと連れて来た。部屋にハレルヤを放り込んで扉を閉めると、全く使われていない感じの机と椅子を指差す。
「さっさとそこに座れ」
「な、何言ってんだよ、出てけ!」
「駄目だって言ってんだろ?ほら、座れって」
「いて!!」
がし、と頭を掴んで椅子に腰掛けるように押すと、ハレルヤは小さく声を上げて凄い形相で睨み付けて来た。本当にまるで、毛を逆撫でた猫だ。
「引っかくなよ?この俺がきっちり教えてやるから」
「訳わかんねぇこと言ってんな」
揶揄するように言うと、彼は諦めたのか、机に盛大に頬杖を突いて、不貞腐れたように吐き捨てた。埃を被った参考書やら教科書を取り出して、彼の前に広げる。エイミーの勉強を見てやったことがあるから、こう言うのはお手のものだ。
「じゃあ、お手並み拝見だ。これ、やってみろ」
少し挑発するように言って我慢強く待つと、ハレルヤは物凄く嫌そうに渋々ペンを手に取った。
暫くの間。彼の仏頂面と、忙しなく動かされるペンをじっと見詰めながら、ロックオンは優しい声を上げた。
「なぁ、ハレルヤ」
「あん?」
「明日からは、ちゃんと行けよ」
「嫌だね」
「お前な……そんなに俺に教えて貰いたいのか?」
「ふざけんな。仕方ねぇだろ、アレルヤのヤツが……」
「ん……?」
「……。何でもねぇよ……」
それきり、彼は何も言わなかった。ただ、すらすらとペンを走らせる音だけがずっと長いこと部屋の中に聞こえていた。
その日の夕食。
ハレルヤは食事の席に顔を見せなかった。無理矢理勉強させたことを怒っているのかも知れない。それ以前に、あんなことは全く必要なかったとも言える。なぜなら……。
「ロックオン」
「ん……?」
そこで、アレルヤの声に呼ばれて、思考が途切れた。久し振りに学校へ行ったと言う彼は、そこの制服なのだろう。あまり見慣れないブレザーを着て座っていた。
「そう言えば、ハレルヤに聞きましたよ。勉強みてあげたんですね」
「あ、ああ。あいつ、全問正解した上に俺にダメだしまでしやがって。あんまり必要なかったみたいだけどな」
溜息混じりに言うと、アレルヤは口元を綻ばせた。
「あなたに見てもらえるなら、ぼくも行かなければ良かったな」
「何言ってんだよ、お前が行ってくれて嬉しかったんだぞ」
言いながら、ロックオンはちらりと主人の顔を見やった。会話は、きっと……聞こえているはずだ。なのに、何の反応もない。少しは喜ぶのではと思ったのに。アレルヤも、そんなことは思いに留めてもいないようだった。
「そう言えば、別荘の件で手紙が来る予定なのだが、届いていないか」
…そんなことを使用人に話し掛けている主人に、ロックオンは肩を竦めたくなった。
けれど。
「いいえ、今日は一通も届いておりません」
続く使用人の言葉が引っ掛かって、思わず眉根を寄せた。
「一通もか」
「はい、一通もです」
「……?」
(ん……?)
何かが引っ掛かった。
急いで記憶を呼び起こしてみると、すぐに思い当たることがある。確かに今朝、ロックオンは見た。郵便配達の男が門のまで前来ていて、郵便を受け取った人物がいるはずだ。なのに、一通もだなんて。
「ロックオン?」
「あ、ああ、いや」
アレルヤの声に我に返って、軽く首を打ち振る。けれど、疑問は拭えない。
(朝来てたのは、何だ)
この使用人の思い違いなら、それでいい。主人宛の手紙じゃなかったから、そう言っただけかも知れない。でも、何だか気になって仕方なかった。
「……オン、ロックオン」
再び穏やかな声に呼ばれて、ロックオンはハッと我に返った。部屋へと戻る途中の長い廊下。すぐ側で、アレルヤのグレイの目が心配そうにこちらを見詰めていた。あれから、夕食の間中上の空だったのだ。気にしているのだろう。
「ああ、アレルヤ、何だ?悪いな……ちょっとボーっとしてて……」
「いえ、いいんですよ。疲れてるんじゃないですか?ハレルヤのお守りは大変だったでしょう」
「はは、噛み付かれるかと思ったけどな。あ、で、今なんて?」
「やっぱり、聞こえてなかったんですね。来週の末に、父さんが別荘に遊びに行く話です。使用人も大分付いて行くから、静かになりますねって、それだけのことですよ」
「え、ああ……」
アレルヤの言葉に、ロックオンは曖昧な返事を返した。そう言えば、そんなことを言っていたような、いないような。
「って、お前もハレルヤも行かないのか」
「ええ、ぼくらが行く訳ないでしょう?」
「……」
そんな、当然のように言われても、返事に困る。ロックオンが黙り込むと、アレルヤは柔らかい笑みを浮かべた。
「でも、あなたは残って下さいね。ぼくたちと一緒に」
「あ、ああ。それで、いいなら……」
「勿論です。父さんも、それでいいって言ってくれますよ」
嬉しそうに言って、アレルヤはそっと顔を寄せ、ロックオンの唇に軽いキスをした。
「じゃあ、お休みなさい、ロックオン」
「ああ、お休み……」
ほんの少しだけ触れて離れた、アレルヤの唇。その余韻に捕らわれながら、ロックオンはぼんやりと返答を返した。
柔らかくて温かい彼の感触。昨日の夜、強く深くかわしたものとは明らかに違うけれど。今だって、何だか胸の内が騒いで仕方ない。彼が求めているのは、本当に、家族のようなそんなキスなのだろうか。
―もっと沢山、しましょうよ。
「……っ」
不意に、耳元で囁くアレルヤの声が聞こえて、思わず指先で唇をなぞった。
ふと、昨日の感触が蘇る。あのとき、妙な感覚に捕らわれた。その正体が解かって、ロックオンは翠色の双眸を見開いた。同時に、驚愕に目を見開いて去って行ったハレルヤの顔が浮かび上がる。
あのアレルヤのキスは、甘くて優しかった。そして、ハレルヤとかわしたものと同じ味がした。あれは、アレルヤとのキスに違いはないけれど、ハレルヤとのそれでもあった。