突発性運命7




 雨音に混じって、先ほどから電話のベルが鳴り響いている。煩くて、勘に触る音だ。ハレルヤは開け放ってあった扉を閉め、ベッドに寝転んだ。鳴っているのは、この家の主人の部屋にある唯一の電話だ。どうせ自分には関係ない。早く切れてしまえばいい。
 そんなことを思いながら聞き流していると、不意にバタン、と音がして、どこかの部屋の扉が開く音がした。恐らく、あの男…ロックオンの部屋がある方だ。
彼のことだ。一体何をしようとしているのか、ハレルヤにはすぐに解かった。
「あいつ、余計なことを」
 忌々しげに呟き、そして部屋を飛び出した。長い廊下を歩いていると、途中でベルの音は鳴り止み、代わりにロックオンの柔らかい声が聞こえて来た。
「もしもし…ああ、学校の……。いえ、今はちょっと留守で……」
 続けて聞こえて来る彼の言葉に、ハレルヤは眉根を寄せた。足を早め、無防備な背中に歩み寄る。
「え、二人とも……?そんな、アレルヤは今朝ちゃんと……」
 そこで、ロックオンの言葉は途切れた。ハレルヤが背後から手を伸ばし、電話を強引に切ったからだ。驚いたように振り向いたロックオンは、ハレルヤの姿を認めて目を見開いた。
「ハレルヤ」
「何してやがる、ここの電話は出るなって言われてんだろ」
「ああ、けど、鳴りっぱなしじゃねぇか。留守だってことくらい、伝えてもいいだろ。暫く帰らないんだしさ」
「相変わらずだな、お前。ほんっとに余計なお世話だぜ」
 ハレルヤが静かな声で言うと、ロックオンは受話器を置き、すっと真顔になった。
「なぁ、ハレルヤ。学校の先生からだったんだが、お前ら二人ともずっと学校に……」
「俺は知らねぇ」
「……」
 言い掛けた言葉を、途中で遮る。何も答えることはなかったし、そのつもりもない。それ以上、自分からは何も聞き出せないと思ったのか。ロックオンは一度吐息を吐き、それから再び声を上げた。
「ハレルヤ……。お前、怒ってた訳じゃねぇんだな」
「……?」
「昨日だよ、無理に勉強させようとしたからさ。てっきり逆鱗にでも触れたのかと思ったぜ」
「……」
 昨日のこと。彼が何を言っているのか気付くと、どくん、と心臓の音が大きく胸の中で聞こえた。このまま、背中を向けて立ち去ってしまおうと思うのに。ロックオンの言葉は尚も続く。
「まぁ、勉強は俺が教える必要ないだろうが……話だけでもしねぇか。お前が嫌じゃなければさ」
「……」
 早く。
(早く帰って来い、アレルヤ)
 でないと、このままでは…。
 ぐっと拳を握り締めて、ハレルヤは口元を歪めて薄い笑みを浮かべた。
「ああ、解かったぜ、ロックオン」
「……!そうか、なら……」
「お前の部屋に行くよ。勉強道具、取って来りゃいいんだろ」
「ああ、待ってるぜ、ハレルヤ」
 明るいロックオンの声に無言で頷くと、ハレルヤはそのまま背中を向けた。

 部屋に戻ると、ハレルヤはポケットの中に徐に手を突っ込んだ。取り出したのは、昨日、写真立てを落としたときに見つけたもの。隠す様に裏に挟まっていたのは、古い写真だった。ぎゅっとそれを握り潰すように力を込めると、ハレルヤはそれを床に放り投げ、再び部屋を出た。

「よう、早かったな。ハレルヤ」
 相変わらず、鍵の掛かっていないドアを押して中に入ると、ロックオンはそう言って笑い掛けて来た。けれど、その手に何も握られていないことに気付くと、ほんの少し眉根を寄せる。
「どうしたんだ、気分が変わったのか」
「……」
 質問には答えず、ハレルヤは彼に向かって一歩ずつ足を進めた。
 雨の音が煩く聞こえている。でも、頭の中で鳴り響いている声の方がもっと煩い。何もするな、と言うアレルヤの声と、今すぐこの男を滅茶苦茶にしてしまえと言う、自らの声と。それから、早鐘のように鳴る心臓の音に、耳を覆いたくなる。
 けれど、頭に煩く響くノイズとは逆に、ハレルヤが発した声は静かで低く、冷たいものだった。
「前に言ったよな……ロックオン」
「……?」
「アレルヤと俺がいつもしている……って」
「な、に……?」
 そこで、初めてロックオンは異変に気付いたように目を見開いた。ハレルヤの纏う不穏な空気に、彼がハッとしたように息を飲む。けれど、反応する隙は与えなかった。
「い、つっ……、ハレ……ルヤ?」
 ハレルヤは徐に手を伸ばして、ロックオンの白い腕を掴み上げた。力は、自分の方が強い。解かっていることだ。反射的にもがこうとしたロックオンは、捻られた腕に痛みを訴え、整った顔を歪めた。
「ハレルヤ?おい?」
 驚いたように声を上げる彼に耳元に唇を寄せる。熱い吐息を吹き込むと、ハレルヤは先ほどよりも低く、暗い声で囁きを落とした。
「あいつとしてること、お前にもしてやるよ!」
「……!」
 直後、捻り上げたままの腕を引き、彼の肢体をベッドに投げ出す。
「ハレルヤ……!」
 即座に上に乗って逃げられないように組み敷くと、ロックオンの翠の双眸が怯えたように見開かれた。

 捕まえた腕は、少し力を込めると、それだけで簡単に折れてしまいそうだった。痛みに眉根を寄せるロックオンを見て、ハレルヤは口元を歪めて笑った。
「怖くなんかねーんだろ、だったら大人しくしろよ」
「ハレルヤ……お前……!」
「男とは……初めてなんだろ……、あんた」
「なに言ってんだ……お前っ!」
「俺だって……ヤる方は初めてなんだ。暴れてると痛い目見るぜ……」
「お前っ……!んっ……!」
 組み敷いて、勢いのまま唇を押し付ける。ガツ、と音がして歯がぶつかり合い、ロックオンが痛みに呻く声が聞こえた。唇が切れて血が滲み、ハレルヤも痛みを感じたけれど、それに気を取られている余裕もなかった。
 ぐっと押し返すように抵抗する手首を強く押し付け、覆い被さったまま、強くキスをする。このまま、乱暴なまでの衝動に任せて行動してしまおうと思っていたのに。
 不意に、強引に合わせた唇の柔らかさに、意識が奪われた。捩じ込んだ舌は押し返されることなく、濡れた粘膜の上を辿ると、応えるように絡みついて来た。
 優しい動き。痛いほど押し付けていたキスから、ほんの少しだけ力が抜ける。合わせていた唇の隙間から、ひゅっと彼が酸素を取り込む音がした。
 直後、緩く吸い付かれて、ぴたりと動きを止めた。
 ロックオンの柔らかくて甘い唇が、ハレルヤのものに優しく吸い付き、応えるように蠢いている。思いもかけず、突然訪れた心地良い感覚に、ハレルヤは息を飲んだ。
 押さえ込んでいた指先から力が抜ける。するりと指先から逃れた彼の手が、持ち上がって髪の毛を撫でた。首筋の間に差し入れられた手が後頭部に回されて、頭を背後から抱え込む。撫でるように動く手の平が、キスをより促しているように思える。
 じわ、と頭の奥が痺れる。今自分が何をしているのか、考えることも忘れて、ハレルヤは目の前の甘い感触にひたすら酔った。
 どのくらいそうしていたんだろうか。
 舌先が痺れを切らす頃になって、ハレルヤようやく我に返った。
 名残惜しそうに絡み付く舌先を解いて、慌てて顔を離す。思わず金色の目を見開いて、お互いの唾液で潤った唇を手の甲で拭った。ロックオンは、逃げ出そうともせず、黙ってこちらを見上げている。何を考えているのか、ハレルヤには解からない。ただ、猛烈に嫌な感覚が背筋を走り抜けた。
 呼吸を整えると、ハレルヤは余裕のないまま笑みを浮かべ、嘲るように吐き出した。
「はっ、諦めたのかよ……物分かりいいな」
「……」
 けれど、彼はその台詞にもゆっくりと首を横に振っただけだった。
「何があったか解らねぇが……これで気が済むなら、好きにしろ」
「何、だと……」
 顔を強張らせたハレルヤは、そこでじっと自分を見詰めているロックオンの視線に気付いた。
 深い翠色の双眸。どうしてこんな風に自分を見詰められるのだと思うほど、優しい目だ。
 でも、そこに浮かび上がる慈しむような色に気付くと、ハレルヤは目が覚めるような気がした。いつか、見たことがある。家族の話をしたときの彼も、こんな目をしていた。
「ハレルヤ……」
「……!触んな!!」
 直後、こちらに向かって伸ばされた手を、ハレルヤは思い切り跳ね除けた。こうして拒絶するのは、何度目だろう。なのに、彼はそうすることを止めようとしない。
 でもそれは、ハレルヤが欲しいものとは違う。
「ふざけんじゃねぇよ……何が好きにしろだ……」
「……ハレルヤ」
「俺は、てめぇの家族じゃねぇ……」
 押し殺した声で吐き捨てると、ハレルヤはベッドから飛び降り、そのまま逃げるように部屋を去った。
「ハレルヤ!」
 背中に、いつになく必死なロックオンの呼び声が掛かったけれど、勢い良く締めた扉の音に重なって、はっきりとは届かなかった。

 息を切らして部屋に戻ると、ハレルヤは扉を閉めて鍵を掛けた。ベッドに苛立たしげに体を投げ出して、荒い溜息を吐く。頭の後ろで腕を組み、高い天井を見上げると、そこにはロックオンとアレルヤの顔が交互に浮かび上がった。目を閉じても変わらない。瞼の裏に焼き付いて、苛立ちを煽るだけだ。
 ごろりと寝返りを打って、ハレルヤはふと床の上に目を留めた。先ほど、握り締めてぐちゃぐちゃにしてしまった写真だ。慌てて起き上がって手に取り、そっとそれを広げる。
「家族、か」
 遠くでも見るような目でハレルヤは呟き、それを再び床の上に投げ出した。
 そうしてのろのろと立ち上がると、窓際に身を寄せ、じっと外を見詰めた。

「ハレルヤ?どうしたんだい、電気も点けないで」
夕方。家に帰って来たアレルヤは、衣服に付いた雨の粒を拭いながら、ハレルヤに問い掛けた。ハレルヤは、窓辺に立ったまま、答えを返さない。眉根を寄せたアレルヤは、数歩進んで、そこで足を止めた。
「これ……」
 驚いたような声と共に、アレルヤが床に座り込む気配がした。振り向いたハレルヤの目に、床に落ちた写真を拾い上げるアレルヤの姿が映る。そこに映っているものを確認すると、アレルヤの目は動揺するように揺れた。
「こんなもの、どこで」
「どこでもいいだろ」
「どうして、きみが持ってるんだい」
 それがアレルヤの手に握られるのを見て、ハレルヤは咄嗟に声を荒げた。
「それは、俺のだ!よこせ、アレルヤ!」
「ハレルヤ……?」
 アレルヤが驚いたように目を見開く。けれど、彼に向けて無造作に手を伸ばすと、アレルヤは大人しく写真をハレルヤに手渡した。
「どうしたんだい、何か、あった?」
「……」
「ハレルヤ……」
 言いながら、アレルヤの手がゆっくりと持ち上がって、ハレルヤの頬に触れた。つ、と上からなぞるように動く指先。ゆっくりと近付いた唇が触れ合うほど側に寄せられる。
 ハレルヤはアレルヤにこうされるのが嫌ではなかった。彼だけが自分を必要としていることの、現れだと思っていたし、今でもそうだと思う。
 けれど。
「よせ、アレルヤ」
 感情の籠もらない声で淡々と告げると、ハレルヤはアレルヤの手をそっと払い退けた。
「ハレルヤ?」
 動揺に揺れるグレイの目。そこに自分の姿が映っているのを確認すると、ハレルヤは唇を開いた。
「もう、お前とは出来ねぇ……アレルヤ」
「……?」
「おかしいだろ、同じ顔で声で、体で…お前は俺だ、だから…」
「ハレルヤ…?」
「だからもう、止めようぜ」
 そこで、腕がぐっと強い力で掴まれた。アレルヤの動揺と興奮が、指先からありありと伝わって来る。
「ロックオンのこと……かい?彼のことで何か……」
「ああ、あいつのこともだ。もう……俺は降りる」
「え……?」
 以前も告げたことのある台詞を、もう一度繰り返す。けれど、アレルヤは一度目よりももっと驚いたように息を飲んだ。
「彼が出て行っても……ぼくらを捨ててもいいのかい?」
「……そんなことにゃならねぇよ」
「なに……?」
「少なくとも、俺が捨てられることにはならねぇ」
「……どう言う意味だい、ハレルヤ」
 訝しげな顔で、アレルヤが名前を呼ぶ。探るような声と、不安を湛えたアレルヤの表情に、何も感じない訳はない。でも、このままではいけない。
「アレルヤ」
 ハレルヤは一度視線を伏せ、それから強い口調で呼び声を上げた。
「俺は、もうここにはいられねぇ」
「……?」
「あとは勝手にしな、アレルヤ。何でも、お前の自由だ。あいつのことも…家のことも」
 言い終えた途端、空気が凍りつき、アレルヤの足元が音を立てて崩れてしまったような気がした。
 僅かな荷物を引っ掴んで、部屋を出る。
 呆然としていたアレルヤは、我に返ってハレルヤを追って来た。
 外はまだ雨が降っている。朝よりも雨足は早まり、地面に叩き付けられる音が煩い。傘も差さないままで玄関を出ると、すぐに髪も衣服もずぶ濡れになってしまった。
「ハレルヤ!待ってくれよ、家に戻ってくれないかい」
「濡れるぞ、アレルヤ。お前こそ戻れ」
「冗談……だよね、ハレルヤ。悪い冗談だ」
「………」
 悲痛なアレルヤの言葉に、ハレルヤは無言のまま、ただ笑みを浮かべた。そうしてそっと顔を寄せ、アレルヤの唇に自分のものを重ねた。アレルヤが驚愕したように息を飲むのが伝わって来る。今まで、こんな風にキスをしたりするのは、全てアレルヤからだった。初めて、この状況で落とされた口付けに、彼の胸が不安でいっぱいになるのが解かる。
 アレルヤ。
 彼への気持ちは、とても一言では言い表せない。でも、歩き出した足を止めるつもりはなかった。そっと唇を離すと、ハレルヤは彼の横を通り過ぎた。
「……ハレルヤ」
擦れ違う瞬間。激しい雨音に混じって、呆然としたようなアレルヤの呼び声が頭の中に木霊して、静かに消えていった。