濡れない手
初めて窮地に陥って、何とか脱した後の皆はすっかり疲弊していた。
通路で擦れ違ったスメラギの目は赤く腫れていた。
そして、ティエリアも、アレルヤも。皆明らかに様子が可笑しかった。
機体の側に立って整備を手伝おうとしている刹那だけは、いつも通り。
彼らの様子を一瞥して、ロックオンは先ず戦術予報士のところへ向かった。
トレミーがいつまた危険に晒されるとも限らない。そんなとき、一番しっかりして貰わなくてはいけないのは、彼女だと思ったからだ。
「ミス・スメラギ、お疲れさん」
「ロックオン…」
部屋を訪れて、出来るだけ明るく声を掛けると、疲れたような顔をしていた彼女はロックオンに向けて笑顔を作った。
その手には酒のボトル。そして既に空になったものがベッドの周りに数本浮いていた。
「私は大丈夫よ、ロックオン。それより、皆は?」
「刹那なら心配ない。あいつはタフだ、呆れるくらいな」
「そう…。ティエリアは?」
「ヴェーダのターミナルユニットに籠もっちまって出て来ねえよ」
「ティエリアは、ヴェーダがいるものね、わたしにはお酒があるわ、でも…」
「問題は、アレルヤ、ってか…」
ロックオンが呟くと、スメラギは同意するように口を噤み、それから視線を伏せた。
焼け爛れたキュリオスの武装。何があったのか、ある程度想像することは出来るけれど。
難しい顔になったロックオンに、スメラギは静かな声を上げた。
「ロックオン」
「うん?」
「アレルヤを…頼むわ。お願い」
「それは、任務かい」
「ええ、個人的な、ミッションよ」
「了解…」
ロックオンが頷くと、彼女はホッとしたように胸を撫で下ろした。
アレルヤ。
確かに、何だか様子が可笑しかった。
危うく鹵獲されそうになったことだけじゃない。何か、あったのだろうか。
でも、守秘義務もあるし、何より、すんなり事情を話してくれるかどうかも解からない。
正直、少し自分には荷が重いとすら思える。
彼の過去はよく知らないが、抱えているものは大きいはずだ。でも、同じ場所に立っている自分なら、慰めてやることくらいは出来る。
でも、どうやって?
例えば……。
そのとき、一瞬だけ頭に浮かび上がった映像を、ロックオンは首を振って打ち消した。
「ロックオン」
顔を見せたアレルヤは、スメラギ以上に泣きはらしたような目をしていた。
ロックオンが一歩足を進めると、彼は無意識なのか、ずり、と一歩後退した。きっと、不安がっているのだろう。
「アレルヤ、どうした」
彼の気を落ち着けるように、ロックオンはアレルヤの肩に腕を回し、なだめるように撫でた。
途端、彼のからだがびくりと強張る。
「ロックオン、部屋に戻って下さい」
「アレルヤ…」
「怖いんです、ぼくは、あなたに酷いことをしてしまいそうで」
「どうした、お前がそんなことする訳は…」
「違うんです、ぼくは…」
怯えたような声を上げるアレルヤに、ロックオンは眉根を寄せた。
何かに怖がっている。自分自身に?
「大丈夫だ、そんなにヤワじゃねぇよ」
おどけたように言って、彼の髪をそっと撫でた。
今までにも、幾度かこうして、触れたことがある。
でも、いつもより感情を込めて、彼の髪を撫でた。
「ロックオン」
アレルヤの警戒が解かれたように、声色が変わる。
きっと、こんなときの甘え方も知らない、アレルヤ。縋り付くような声に、何とかしてやりたくなった。
髪に触れていた手を後頭部に回し、そっと頭を抱える。
耳元に唇を寄せて、ロックオンは優しく囁きを落とした。
「何かあるなら吐き出しちまえよ」
そう告げた途端。突然体が引かれ、強くアレルヤの腕に抱き締められた。
「アレルヤ?」
驚いて咄嗟に引き剥がそうとすると、増々二の腕に力が籠もる。
抱き締めると言うより、必死にしがみ付くようにも思える。
容赦なく力を込められ、体が痛むけれど。アレルヤがこんな風になるなんて、余程だろう。
ロックオンは気を落ち着けると、手を伸ばして、そっとアレルヤの首筋を撫でた。
今まで、弟にするように頭を撫でたり肩をさすったりするのではなく。無意識のうちに、愛撫でもするように。
傷付いている彼を慰めてやりたいと言う思いからだけだ。ただ、それだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、ロックオンはゆっくりと顔をずらして、アレルヤの首筋に唇を寄せた。
「アレルヤ」
首筋に濡れた唇が触れると、アレルヤはびくりと肩を揺らし、そして目を上げた。
「二、三日後には、刹那と地上に降りる。だから、な?」
「…ロックオン!」
「何でもいいぜ、お前がしたいこと、すりゃいい」
「…っ、どうして…」
「そんなことはどうでもいいいだろ。とにかく、一人で悩むな。俺がいるだろ」
言いながら、彼の背中に腕を回す。
「俺も、同じだ、お前と」
「………同じ?」
耳元で囁くと、アレルヤは呆然としたように言葉を繰り返した。
一度距離を取って、真っ向から伏せられたグレイの目を覗き込む。
「抱えてるもんまで全て同じとは言わないさ。でも、今ここに一緒にいるだろ」
そう言うと、アレルヤは片方の目を何度か瞬かせ、そして顔を上げた。
その口元に戸惑いもなく顔を寄せて、ロックオンは柔らかい感触と温度をゆっくりと味わった。
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「二、三日後には、刹那と地上に降りるんだ、だから」
だから、な?
思わぬ人の優しい言葉と手。そして誘うような声色に、アレルヤの頭の中は真っ白になった。
でも、いけない。彼に触れるのが、ただ怖い。
上手く伝える自信がなくて、アレルヤはただ拒絶しようとしたのに、それを押し退けて突然触れて来た唇は、打ちひしがれていた胸中に甘い痺れを齎した。
(でも、出来ない、こんな)
胸中で叫びにも似た声を上げると、ハレルヤが目覚める気配がした。
―いいじゃねぇか、アレルヤ。面白そうだろ?
(駄目だ、そんな)
―素直になれよ。せっかくこうして乗り気になってんだ、抱いてやれよ。
(でも、そんなこと)
―何だよ、意気地がねぇな。本当は、ずっと望んでいたんだろ?
(ぼくは、そんな…)
ただ、時折憧れのような感情を抱いていただけだ。
だから、それ以上のことなんて出来ない。
それに、こんな手で触れたらきっと、今アレルヤの背を優しく撫でている庇護の手を無茶苦茶にしてしまう。彼まで罪の色に染め上げてしまう。
でも。続くロックオンの言葉に、アレルヤは短く息を飲んだ。
「一人で悩むなよ、俺がいるだろ」
「……?」
「俺も、同じだ、お前と」
「……同じ?」
(ロックオンが、ぼくと…ぼくらと…?)
「抱えてるもんまで全て同じとは言わないさ、でも、今ここに一緒にいるだろ」
「………」
今一緒にここにいる。
その言葉がすっと胸に広がって溶けて行くと、驚くほど気持ちが落ち着いた。
そうだ、彼だって、稀代の殺人者なのだ。
(彼も、ぼくと同じ)
そう思うと同時に、アレルヤは心を決め、ゆっくりと側にあった体を押し返した。
「ありがとう、ロックオン。でも、大丈夫です、本当に」
「……アレルヤ」
離れた体温に名残惜しさを感じながらも、アレルヤは笑顔を作った。
今は、まだ。まだそのときじゃない。
「地上に行くんだよね。気をつけて」
「ああ、お前も…」
けれど、ロックオンを返した後も、この期に及んで迷っていた。
それでも、ハレルヤに背中を押されたのもあるけれど、自分で過去に決着をつけなければいけなと思ったから、アレルヤはスメラギにミッションプランを提示しに行った。
恐らく、ミッションは決行されるだろう。そうなったら自分はあの施設を破壊し、同胞たちを手に掛ける。
それが終ったら、アレルヤは忌まわしい過去を清算出来ているだろうか。それとも、更にこの手は罪の色で染まってしまうだろうか。
それでもいい。あの人も、ガンダムに乗っている。あの指で、引き金を弾いている。
ぼくと、同じ。同じく罪深い生き物なんだから。
あの人を抱くのは、この手がもっと血に濡れてしまってからでいい。
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二人の始まりの日を思い浮かべて、アレルヤはぼうっと天井を見上げていた。
ロックオンがくれたものは沢山あった。
頼り甲斐のある年上の男。気が効くのに自分のことには無頓着で、危なっかしい。
それから、温かい温度といやらしく動き回る手の平。
欲情と安堵と。恋の喜びと苦しみ。本当に色々なものを。
彼を抱いてしまおうと決心してから、次に顔を合わせたそのとき、アレルヤは夢中でロックオンにキスをした。
先日、彼が自分を慰めてくれたあの優しいキスとは違う。
巧いだなんて自分では思わないけれど、そんなことはどうでも良かった。
始めはゆっくりと触れると、恐らく…他愛もない話でもしようと思っていただけの彼は、驚いて手にしていたボトルを落とした。と言っても、ここは半重力の空間だから、ただ彼の手を離れたボトルがふわふわと流れるように部屋の隅へと移動していくのが見えただけだ。
唇に触れた瞬間、頭の奥が痺れた。誘われるように柔らかい唇を甘く噛んで、舌を潜り込ませる。
甘い、と熱くなり始めた頭の隅で思った。
「ア、レルヤ…」
唇の隙間から自分を呼ぶ声がする。
何か言われても、きっと何も納得の行く答えを出すことは出来ない。弱かったから、何もかも忘れる行為にただ溺れたかった。
ロックオンも、それは解かっていたのだろう。数日前だって、本当に抱かれてもいいと思っていたはずだ。
案の定、彼は少しも抵抗しなかった。夢中でしがみ付くアレルヤの頭を後ろから優しく撫で、それからゆっくりと身を預けてくれた。
「アレルヤ、落ち着け…」
「ロックオン…」
「大丈夫だ、ゆっくり、やれ」
そんな台詞が聞こえて、肩から力を抜いた。
彼は、まだアレルヤが途方もなく傷付いていると思っているのだろう。
でも、そうじゃない。そうじゃないのだ。
彼も自分と同じく血に汚れている。それをただ確認したい。
罪の味はあんなにも苦いのに、どうしてこの人は甘いのか。アレルヤが抱いてしまえば、きっと、彼と戯れのようにするキスすら、苦い味を齎すに違いない。
そんなことを考えながら、血に濡れた手で彼の衣服を捲り上げて剥ぎ取り、白い肌を露にした。
アレルヤがキスをすると、そこは熱を持ったように赤く染まった。
―どうした、今日は。随分乗り気じゃねぇか。
頭の中でハレルヤの声がした。
「黙っていてよ、ハレルヤ」
これは、ぼくたち二人の儀式だ。これから二人で、ロックオン・ストラトスをこの手に抱くんだ。
この人も、自分と同じだから。いつか、裁きを受ける。そのときまで、こうして少しでもいいから触れ合っていたい。
傷の舐め合いかも知れない。でも、もう逆らえない。この人が必要だ。
でも、中へ突き進んだとき、小さく震える背中と、シーツを手繰り寄せて掴んだ手は、酷い違和感をアレルヤの中に生んだ。
血に染まっているはずの手は、厚い布地に包まれて見ることが出来なかった。
快楽と興奮で麻痺した視界で捉えた手。
彼は、罪の色を隠すために、ああやって手を覆っている。
いや、彼だけは、罪の色に染まっていないのかも知れない。
アレルヤが抱いても、何度も中で果てても、彼は変わらない。
何度も行為を重ねるうち、いつの間にか、そんなことを考えるようになった。
酷く疲れていたのかも知れない。安らぐことなんか本当は許されないのに、彼とこうしていると気分が落ち着く。罪悪感が、僅かに薄れる。
そうしている内に、彼を抱いていると、あの白い肌を弄っていると、自分の罪が許されていくような気になった。
浄化されると感じるなんて、本当は馬鹿げている。体を重ねる行為は、そんなものじゃないのに。
実際はもっと生々しくて、耳元に聞こえるロックオンの吐息は早く、微かに上がる声は酷く淫猥だ。
「んっ、…ぅ」
喉がひくひくと震えて、赤く色づいた突起に噛み付けば、ひっと息を飲んで身悶える。
ベッドの上でのロックオンはいつもの飄々とした姿からは想像もつかないくらい淫らだった。
開いて押し上げた足の奥に身を進めて腰を打ち付けると、もっともっとと強請るように彼は肢体を揺らす。
「アレルヤ…」
誘うように名前を呼ぶ唇は弾ませた呼吸を吐き出して赤く染まっている。そこから覗いた舌先は、アレルヤを誘うようにいつも蠢いている。夢中で吸い付くと、やはり甘いような味がした。そう感じるほどに魅力的だった。
「ロック、オン、ロックオン…」
途切れ途切れに名前を呼びながら、アレルヤは夢中で柔らかな内壁を突き上げた。
ロックオンの喉が更に仰け反って、吐き出された欲望をその中に受け止める。
それでも尚、足りないと言うようにひくつく内壁に、再び意識が奪われる。飽きるまで追い求めても、満たされることはなかった。
自分も彼も、浅ましいまでの快楽に溺れている。後悔も苦しみも罪悪感も、こうしていると一時的には忘れられた。
どこまでも墜ちていっている、そんな気がした。
でも。彼の手だけは、いくら戦った後でも血に濡れることなどないように思えた。
こんな行為は、何も生み出すことなど出来ない。ただの戯弄だ、お前は愚かだと、ハレルヤは言った。
その通りだと思う。束の間の快楽。どうしてこんなものに溺れているのか、アレルヤだって虚しさを感じている。
けれど、恐らくはロックオンだってそんなことは解かっているはずだった。
でも、彼の手が優しく髪や頬を撫で、それからアレルヤの衣服に掛かる度、心が躍った。
誘うように蠢く手は、やがてアレルヤの背中に回され、距離はより縮められる。
そうやって彼を抱く度、あの甘い匂いと味に、荒んだ心が癒されていたのは事実だった。
そのうち、あの手だけは、ロックオンと言う存在だけは、何があっても守らなければいけないと思うようになった。
でも、と。
四年経った今になって考えることがある。
ロックオンの手は、アレルヤが抱いているときは、本当はどんな色をしていたのだろう。
アレルヤが守ろうとした存在は、本当は…どんな姿をしていたのだろう。
頭に思い描くあの人は、いつも綺麗で優しいけれど。
(ロックオン)
ロックオン・ストラトス。
名前を呼べば、苦い味が胸に浮かび上がる。
今、あの唇を味わえば、それはいつか思い描いたように苦いものなのだろうか。今この胸の中にあるのと同じ味がするんだろうか。
でも、いくら望んでも、もう確かめることは出来ない。
だから、脳裏に思い描くあの人は、これからもずっと何にも染まらない白い手のままだ。
終