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顔を上げると、視線の先には無限の宇宙が広がっていた。
耳元には、引っ切り無しに放出される粒子の音が聞こえる。そして、感じることなど勿論出来ないが、背中越しには、彼――刹那がいる。
ありがとうと、沙慈は先ほど彼にそう告げた。宇宙を見詰めていると、頭に浮かんで来るのは、何故そんな気持ちになったのかと言うことだった。はっきりとした答えは出ていない。でも、急にそれを彼に伝えたくて堪らくなった。言ったからって、どうと言う訳ではない。でも、礼を言ったときのように、何だかそうしたい気分だった。
迷った末、沙慈は手元のスイッチを押した。小さな音がして、目の前のモニターには刹那の顔が映し出される。
「刹那」
「……どうした」
「今少し、話せるかな」
沙慈の申し出に、彼は意外そうに目を瞬かせた。先ほどと言い今と言い、沙慈の言動がいつもと違うからかも知れない。でも、何だか引けない。
「別に、何がって訳じゃないんだけど……少しでいいから」
「ああ、構わない」
すぐに頷いてくれた刹那にホッと胸を撫で下ろすと、沙慈はモニター越しに彼と視線を合わせた。そうして、頭に思い巡らしていたことを少しずつ吐き出し始めた。
「最初に日本できみに会ったのは、もう四年、いや五年くらい前だね」
「……ああ」
「ぼくはあのとき、きみのことは何一つ知らなくて、ただ、ちょっと愛想がないだけで、ぼくと同じ普通の人だと思ってた。それに、いつかは仲良くなれそうだって、そんな気がしてたよ」
話しながら思い浮かべる情景は、もっともっと昔のことのように思える。あの頃はルイスも側にいて、世界はただ平和なんだと思っていた。モニターに映った刹那の顔に、以前の面影を重ねると、自然と口元が綻ぶ。けれど、実際は違った。沙慈の見えていたものは、あの頃と大分変わってしまった。
「でも、きみとあのコロニーで再会して、ぼくは突然きみのことが解からなくなった。きみが何を考えているのか、どうして戦っているのか。ぼくを助けたのは、どうしてなのか」
「………」
「それに、きみを憎いと思ったこともあった。でも、段々と……少しずつだけど、理解出来るんじゃないかと思うようになっていたんだ」
「……沙慈」
刹那は、いつでも優しかった。今なら、それが解かる。
言葉はとても少なくて、彼の思いをその僅かな台詞から汲み取るのは至難の業だ。こちらを見詰める目には曇りがなくて、何故か責めるこちらが後ろめたいような気分になって、目を逸らしてしまう。憎しみも悲しみも、黙って受け入れようとする刹那に、いつの間にか沙慈はその感情を持ち続けることが難しくなって行った。
沙慈が拒絶しても、いつでもこちらに向けて伸ばされる手。その手を取ってしまえば、今度こそ負の感情は消えてしまう。それで、いいのか。そう思って、ずっと彼の思いを受け入れることが出来なかった。でも、ルイス・ハレヴィに会いに行こう――そう言われて、沙慈はようやくその手を取ることが出来た。
それなのに。
「それなのに、最近のきみは、どこか可笑しくて、何だか……ずっと不安だった」
「……」
それに、あの目。暗闇の中で、確かに金色に輝いていた。あれは、どう言うことなのだろう。
折角理解出来たと思ったのに、刹那はまた沙慈の知らない場所に立とうとしている。いつも自分は、刹那が手を差し出してくれなければ、そこに辿り着くことさえ出来ないと言うのに。
でも、先ほど、あのアロウズのパイロットに言った言葉を聞いて、今度こそ彼の本音がよく解かったような気がした。あの謝辞は、そんな気持ちから来ているのかも知れない。
「でも、不思議だよ。今は、日本で最初に出会ったときみたいな気持ちなんだ。きみが、何故かぼくとそんなに変わらない場所にいるんじゃないかって」
「……」
沙慈の言葉を、刹那はただ黙って聞いていた。赤み掛かった双眸がじっと何か言いたげに揺れているけれど、彼の唇はすぐには開かれない。こんなことを言われて、困惑しているのかも知れない。
でも、言いたいことは言ったから、もういい。
「ごめん、こう言うこと、モニター越しに言うことじゃないけど、でも」
でも、どうしても言いたかった。
それだけ言って、通信を切ろうとした途端、刹那が不意に声を上げた。
「こっちに、来ればいい」
「……え?」
「コックピットを開ける」
「え、刹那?」
「来い、沙慈」
「……!」
(刹、那……)
その呼び声に誘われるように、沙慈はゆっくりと立ち上がっていた。
ガンダムが航行を止め、宇宙空間に留まると同時に、ゆっくりとコックピットを開け、沙慈は地を蹴った。途端、ぐる、とガンダムが向きを変え、刹那がこちらへと手を伸ばしているが見える。
「刹那」
伸ばされた手を、沙慈は戸惑うことなく掴んだ。そのまま、ダブルオーのコックピットへと引かれる。勢いを付けて乗り込んだ沙慈の体は、刹那の腕の中にしっかりと受け止められた。
「二人で乗るには、狭いが……」
「いいよ。疲れたら、オーライザーに戻るから」
「……」
そう言った途端、彼はその目に不服そうな色を浮かべて、沙慈の手を捕まえた。今すぐ戻る訳ではないのに、まるで名残惜しいとでも言うように。ぎゅっと込められた力に、思わずハッとする。刹那が、こんな表情をするなんて。
それに、こんな風に来いと言ってくれるなんて、思ってもみなかった。やっぱり、自分は彼のことをまだよく解かっていないのかも知れない。そんなことを思いながら、沙慈は彼を安心させるように笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ、刹那、まだ行かないから」
「沙慈……」
ホッとしたように、刹那が腕を解放する。でも、体勢はまだ受け止められたときのままだ。すぐに体勢を入れ替えて、距離を取りたいのに、そんな顔をされてしまったら、何だか動けない。いや、動きたくないのは、本当は自分の方なのか。体にはパイロットスーツ、頭には固いメットを着用しているから、温度までは感じない。でも、妙に気恥ずかしくなって、沙慈は視線を伏せた。
「へ、変だな……。沢山、話したいことがあったんだけど……」
動揺を誤魔化すように言った途端、不意に彼の手が持ち上がって、メット越しにそっと顔の辺りを撫でた。驚いて目を見開いたけれど、咄嗟に言葉が出ない。刹那はまだ無言のままその動きを繰り返している。優しい、手の動き。
彼が触れたがっている、何故かその気持ちが直に伝わって来て、沙慈は落ち着かなくなった。
先ほどは、ここへ飛び込むことに何の戸惑いもなかったのに。直接顔を見て話したいと、さっきまでは思っていたはずなのに。メットのバイザーを外すことすら、何だか戸惑ってしまう。
「そんな顔をするな。何も、しない」
「……!」
そんなことを言われて、思わず息を飲んだ。
何もって、なんだ。別に、何かされるなんて思っていた訳じゃない。
そう言おうとして、沙慈は口を噤んだ。これじゃあ、また同じことだ。刹那が差し伸べてくれた手を捕まえて、もっとこっちに手繰り寄せたいのに。その為には、沙慈だって一歩踏み出す必要がある。戦うと、自分の意志で決めたときのように。
「せ、刹那、ぼくは……」
言い掛けた途端、ピ、と電子音が鳴り響いて、ハッとした。
「通信か?」
モニターに映った文に視線を巡らせた刹那は、気持ちを切り替えたように、きりっとした顔つきになった。
「状況が変わった。急いで戻る」
「何か、あった?」
「いや、ただ、出来るだけ早く戻って欲しいそうだ」
「そ、そう……」
トランザムは先ほどの戦闘で使ってしまったけれど、自動操縦よりは手動に切り替えた方がいい。
刹那の言葉に、沙慈は安堵する反面、少しだけがっかりしている自分に気付いた。でも、そう言うことなら、ぼうっとしている場合じゃない。
「ああ、じゃあ、ぼくも戻……」
言いながら、戻ろうと立ち上がり掛けた腕が、ぐい、と掴んで引き戻された。
「いい、このままいろ」
「で、でも……」
戸惑ったような目を向けると、彼は一層強く沙慈の腕を掴んだ。
「沙慈」
「……!」
「このままいろ」
「……せ、つな」
素っ気無い台詞。でも、彼の気持ちが直に伝わって来て、沙慈はその手を振り払うことなんて到底出来そうもなかった。
「解かったよ、刹那」
頷いた沙慈に一瞬だけホッとしたような顔を見せて、刹那はモニターに視線を移した。
それから、彼は殆ど口を開かなかった。
退屈になって、そっと目を閉じると、何故かあの白い粒子の中にいるような感覚に陥った。あの中にいると、ふわふわと生身のままで宇宙を漂っているような不思議な感覚に陥る。今刹那との間にあるパイロットスーツもメットも、何もかも取り去られて、そこでは意味を成さない。
それだけじゃない。あの場所では、普段あまり激高しない刹那の心の叫びが聞こえるような気がする。彼はいつも、心の中で何かを叫んでいるように思える。そもそも、あの空間で、肉体は存在しているのだろうか。どちらにしろ、精神も肉体すらも露にされて、その上で融けあっているような、不思議な感覚だ。
他人と交わるなんて、不愉快きわまりないはずだ。しかも、相手は同性で、同じ年くらいで。本当なら、気まずさとか気恥ずかしさとか、そんなものばかり感じるはずなのに。何故か、あの場所は心地良かった。刹那と交じり合って、どこまでが自分のものなのか解からないような。
――刹那、ぼくは。
先ほど、自分は何と言おうとしたのだろう。もっと、きみのことが知りたい。もっと、きみを理解したい。そんな内容だったのは確かだ。でも、もう今更言えない。でも、あの粒子の中でなら、素直に伝えられそうな気がする。
そんなことを思い巡らしながら、プトレマイオスに帰還する直前まで、沙慈は自分の体を支える力強い腕に身を委ねていた。
終