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 あのバレンタインと誕生日からこっち、沙慈は今日と言う日が近付く度にびくびくしつつ、落ち着かない日々を過ごしていた。
 何故なら、今日は俗に言うホワイトデーと言うもので、バレンタインにチョコをあげた自分に、あの彼がお返しをくれるのではないかと思っていたからだ。
 あの彼とは、言うまでもない、隣に住む刹那・F・セイエイのことだ。
 バレンタインもその後の誕生日も、今でも思い出すだけでどうにかなりそうだ。
 刹那は一体どう言うつもりで沙慈にあんなことをするのだろう。何となく、好意を持たれてるのかも知れない。
 そうは思うけど、だからって…あんなことまで。 
(ああ、もういい。考えないようにしよう!)
 刹那のことを考えると動機が早くなったり呼吸が乱れたりして落ち着かない。それに、考えたって何も解決する訳じゃない。
 とにかく、ホワイトデーには顔を合わせなければいい。今度こそ、何もない、安らかな日を手に入れるんだ。
 そう心の中で決意を固めて、沙慈は当日を迎えていた。

 外出するときも、そっと扉の隙間から外を伺って、周りに誰もいないことを確認してから急いで出掛ける。帰って来るときもそうだ。周囲への警戒は怠らない。チャイムが鳴っても、絶対に今日は出ない。これだけ警戒が万全なら、いくらなんでも顔を合わせることはないだろう。
 と言っても、刹那のことが嫌だとか思っている訳じゃない。断じてそうじゃない。だって、沙慈の誕生日のとき、彼は慣れない手料理を作ろうとあんなに一生懸命で、何だか嬉しかった。彼の誕生日には、自分も何かプレゼントしたいとだって思う。
 でも、その後が良くない。やることが突拍子過ぎる。だから、沙慈がこうして彼を避けてしまうのも、仕方ない。
 そう思いつつも、もしかしたら、刹那は誕生日と同じように、沙慈の為に何か用意してくれているのではないか。もし、そうだったら……。そのことを考えると、沙慈の胸はちくりと痛んだ。

 午前中は、何事もなく時間が過ぎだ。昼食を近くのコンビニまで買いに行くときも、何もなかった。刹那は、いるのかいないのか、解からない。隣はしん、と物音一つせず、彼の気配を探してみても、少しも感じることが出来ない。
(ま……、いいけどね)
それならそれで、沙慈が思い悩むことは何もないのだから。

 昼になると、ちょっとリラックスして来て、カーテンも開けて、まだ少し肌寒かったけれど、窓も開けてみた。今日に限って、他の来客もなくて、静かなものだ。
 夕方になっても、それは変わらなかった。
 もしかして、全て自分の思い過ごしだったのかも知れない。刹那と、あんなことがあったのだって、何だか信じられないような。
 いや、でも、油断は禁物だ。一人首を左右に打ち振って、沙慈は緩くなる決意を再び固め直した。

 でも。結局、夜になっても、刹那は現れなかった。夕飯だって、とっくに済ませてしまった。もう、時計の針は深夜近くを指し示している。
(……何だよ)
 何だか、面白くない。
 自分が勝手に警戒して、勝手に振り回されていたからってだけじゃない。バレンタインのときは、あんなに沙慈のチョコを楽しみにしてくれていたのに。誕生日のときだって、あんなに一生懸命だったのに。
 いや、もういい。忘れよう。たちの悪い野良猫に引っ掻かれたとでも思って、あのことも、あのことも忘れてしまおう。

 気持ちを切り替えてベッドに横になったものの、なかなか寝付けなかったので、沙慈は再びコンビニにビールを買いに外へ出た。
 途端、隣でカチャ、と言う音がして、びくりと肩を揺らした。慌ててそちらを見ると、たった今帰って来たのか、刹那が部屋の鍵を開けているのが見えた。
「せ、刹那!」
「……沙慈・クロスロード」
 彼は別に特別驚いた様子もなく、こちらに視線を送ると、落ち着いた声を発した。その様子に、今まで悩んでいたことなんて、全部どこかへ行ってしまった。
 何だ。意識していたのは、きっと自分だけだったのだ。馬鹿馬鹿しい。
「今、帰り?」
「ああ。お前は?」
「ぼくはちょっと、コンビニに……」
「……そうか」
 そこで会話は途切れ、刹那はドアノブを捻って、扉の奥へと消えようとした。彼の首に巻いている赤いマフラーが、今にも見えなくなる寸前に、沙慈は咄嗟に声を上げていた。
「刹那!!」
「……!」
くる、と振り向いた刹那が足を止め、こちらをじっと見詰める。
「……何だ」
「あ、ええと……」
何を、言えばいいんだ。いや、お返しはどうしたんだくらい言ったって、変じゃない。何も可笑しくない。
 沙慈はなるべく平静を保ちながら、慎重に口を開いた。
「ええと、今日って、何の日か知ってるよね」
「……三月十四日だ」
「うん、そう……、そうなんだけど」
「……?」
「ホワイトデーだよ、知ってた?」
「……ホワイトデー?」
 不可解な言葉を聞いたとでも言うように、刹那は思い切り眉を顰めた。
 もしかして……。
「もしかして、知らないの?」
「ああ……」
 こく、と頷いた刹那に、沙慈はその場にへたり込みそうなほど脱力してしまった。

 バレンタインは知ってるのに、何でホワイトデーは知らないんだ。そう思ったけれど、刹那は確かにちょっと皆と変わっているところがあるので、仕方ないのかも知れない。
 はぁ、と溜息を吐いて、沙慈は笑顔を作った。
「ホワイトデーは、バレンタインにチョコレートをくれた人にお返しをする日だよ。ぼくは、きみにチョコをあげたから、お返しを貰う権利がある」
 そんな風に、ちょっと固い言葉で茶化しながら告げると、刹那は首を傾げ、何事か考え込むような素振りを見せた。
 それから、扉から手を離すと、沙慈の側へつかつかと足を進めて来た。そして、徐にがしりと手を掴まれ、沙慈はハッと息を飲んだ。
 まずい。これは、まさか、いつものパターンになってしまうのでは?!
 今にも刹那が”お返しは俺だ!”なんて叫ぶんじゃないかと、思い切り身構えながら、慌ててその手を振り解こうとした、途端。
「んん……っ?!」
 ぐっと、唇に押し付けられた感触に、一瞬、頭の中が真っ白になった。目を見開くと、刹那の顔がぼやけるほど近くにある。
(……え)
 もう一度瞬きして、ようやく悟った。
 刹那が、キスしている。こんな場所で、こんな―。
「っ、ぅ……」
 もがくのも忘れて息を飲むと、ちゅ、と吸い付くような音が聞こえた。その音で我に返ると同時に、カァッと耳まで真っ赤になるのが解かった。

「せ、刹那……」
ゆっくりと離れて行く唇の感触を、頭の片隅で勿体無い、だなんて思いながら、沙慈は呆然と刹那の名前を呼んだ。
 間近で、赤み掛かった双眸が、沙慈をじっと見詰めている。
「ありがとう、沙慈・クロスロード」
「え……、あ……」
 ふ、と柔らかい笑みを口元に浮かべて、刹那は再び扉の方へと足を進め、そのまま中へと入ってしまった。

「………」
(何だ、今の……)
 その場に置き去りにされたまま、沙慈は暫く呆然としていた。
 何で今更、キスだけなんて。今までもっと滅茶苦茶で、冗談みたいな関係ばっかりだったのに、どうして今更。それに、何故こんなにどくどくと鼓動が煩く鳴っているんだ。
 すっかり彼のペースにハマってしまったのだと気付いたけれど、もう遅い。
「はぁ………」
 真っ赤になったままでがっくりと項垂れて溜息を吐くと、沙慈はふらふらとコンビニへ向かった。

 今日はきっと、一睡も出来ないに違いない。