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「刹那……!」
呼び声がして振り向くと、そこには見たことのある青年が立っていた。
年齢は刹那と同じくらい、背は、彼の方が少し高い。この人物は知っている。隣に住んでいる、沙慈・クロスロード。知っているのは、それだけだ。特に、何も思うところはない、ただの青年。
その彼が、何の用なのだろう。
刹那が首を傾げると、彼は手に持っていた容器をこちらに向けて遠慮がちに差し出した。
「良かったら、これ食べない?ちょっと、作り過ぎちゃって」
その声に釣られるように覗き込むと、容器の中には美味しそうな料理が入っていた。夕食をまだ摂っていなかったし、断る理由もなかったので、刹那は素直に容器を受け取って、短く礼を言って彼と別れた。
部屋に戻ってから、ベッドに腰を下ろしてもう一度改めてそれを見た途端、お腹がぐぅっと音を立てて鳴った。何だか、美味しそうだ。容器の蓋を開けると、とてもいい匂いがした。しかも、一口食べると、なかなか美味しかった。
なくなってしまうのが勿体なくて、刹那はそれを一口一口、大事に食べた。
翌日、綺麗に空になった容器を返しに行くと、沙慈は何だか嬉しそうに見えた。
「良かったら、また作るよ」
そんな言葉を聞いて、少し、彼に会うのが楽しみになった。
その翌日。
沙慈はまた昨日とは違うものを容器に入れて持って来てくれた。彼の故郷の食べ物だと言うそれは、以前と同じく、とても美味しかった。
翌朝、容器を返しに行く時、刹那は視線を上げてまじまじと沙慈の顔を見詰めてみた。とても美味しかったと言うと、彼は照れたように、ありがとうと言った。
笑顔がとても優しい。人が良さそうだ。彼のことが、嫌いじゃない。
刹那は、沙慈に対して、と言うより他人に対して初めてそんな印象を抱いた。
それからと言うもの、沙慈は毎晩のように夕飯のおすそ分けだと言って、料理を持って来てくれるようになった。彼が差し出す容器の中身は、いつも美味しかった。沙慈のことを考えると、反射的にお腹が空いてしまうほど。いつの間にか、刹那は彼が訪ねて来る瞬間を、心待ちにするようになった。
けれど、とある日。
刹那は仕事で遅くなって、いつも沙慈が訪ねて来る時間に家に帰れなかった。今日は彼の料理が食べれそうにない。仕方なく、以前と同じように、ファーストフードで適当にホットドッグを買って、帰り道に一口頬張った。
「………」
でも、何だかそれ以上食べる気がしない。
まずい訳じゃない。いつもと、同じ味。それなのに、食べている気がしない。
どうしてだろう……。理由は解からないけれど、今は……沙慈が差し出してくれる、あの容器の中身が食べたい。
味がしないまま水で流し込んだ食べ物は、喉の奥に詰まったようで、空腹は少しも満たされた気がしなかった。
そのまた翌日。
「刹那、いる?」
チャイムが鳴った後、自分を呼ぶ沙慈の声がして、刹那は慌てて寝転んでいたベッドから起き上がった。
沙慈だ。彼が来た。きっと、また食事を持って来てくれたはずだ。今日は何だろう。何でもいい、楽しみだ。
そんな期待を膨らませながら急いで出迎えたのに、沙慈はその手に何も持っていなかった。
ちょっとだけがっかりして、がくりと肩を落とすと、彼はぷっと可笑しそうに吹き出した。
「そんな顔しないでよ。食事作ったから、良かったら一緒に食べない?」
「………!」
意外な申し出に、パッと弾かれたように顔を上げ、刹那はこくんと首を縦に振った。
それを期に、彼とは一緒に夕食を摂るようになった。
沙慈はとても料理が上手で、彼が作る食事は今まで食べたどんなものよりも美味しかった。素直に褒めると、彼はいつも、そんなことないよ、と言った。
でも、あるとき彼が、今日は仕事が遅くなって作る暇がなかったんだと、いつか無理矢理水で流し込んだあの店のホットドッグを二人分買って来た。刹那は、あのときの虚しい気分を思い出して戸惑ったけれど、一口食べるとそんなことはすぐに忘れてしまった。ホットドッグは、とても美味しかった。
沙慈と食べているから、美味しいのかも知れない。
何となく、刹那はそんなことを思った。
それからは、今までよりもっと、沙慈について知りたいと思った。
これまで気にしていたのは、彼が刹那に食べさせてくれる美味しい食事のことばかりだったけど、今は、それよりも彼自身のことが知りたい。
些細なことでも見逃さないように、刹那は沙慈といる時間をなるべく増やすようにした。
沙慈は、とにかく優しい。物腰が柔らかいと言うのだろうか。刹那が難しい顔をしていると、いつも気を使って明るい話題を振ってくれる。人の世話をするのが苦ではないのか、いつも笑って、刹那の好きなものを作ってくれた。刹那の口数が少なくても、嫌な顔をしたりしない。
それに、彼の側にいると、その柔らかい空気に中てられたように、和やかな気持ちになれる。沙慈といると心地良い。沙慈の笑顔を見ると、刹那も一緒に笑ってしまうことが多くなった。
でも。幾日も一緒にいるうちに、あることに気付いた。
沙慈の笑顔はとても優しそうだけど、何だか、いつもどこか寂しそうに見える。笑っているのに、何だか、今にも泣き出しそうに見えることがある。
何が、沙慈にそんな顔をさせるのだろう。
気になって尋ねると、彼は核心を突かれたように、ハッとした顔をした。
言いたくないなら言わなくていいと言ったけれど、彼自身、誰かに聞いて欲しいと思っていたのだろうか。少しずつ話され始めた彼の過去に、刹那はじっと耳を傾けた。
沙慈には、四年前に付き合っていた人がいて、その頃は何をするにもその人と一緒だった。これからもずっと、そんな時間が続くと思っていたのに、それは突然失われてしまったこと。そして、その人は今はもう側にいないこと。でも、いつか必ず会うと約束したこと。
そうして、とても愛おしそうに、首から提げている指輪を手の平で握り締める彼に、刹那は何だか堪らなくなってしまった。
「早く、会えるといいな」
本当にそう思って口にすると、沙慈は驚いたように刹那を見返して、それからふっと優しく笑った。
「ありがとう、刹那」
照れたようにそう言われて、刹那の胸の奥はきゅっと痛くなった。
いつも、沙慈といるとお腹がぐぅっと鳴ってしまうのに、今日は違う。お腹じゃなくて、胸の奥で小さな音が鳴った。
それからも、沙慈の笑顔を見る度、刹那の胸の奥はいつも締め付けられるように痛くなった。でも、苦しいとか、そう言う感じではない。ただ、きゅん、きゅん、と――小さく音を立てるように、胸の奥で心臓が締め付けられるように感じた。
それから、数日後。
沙慈がいつもの時間にチャイムを鳴らさなかったので、刹那は気になって隣の部屋を覗いてみた。部屋の中は真っ暗で、誰もいない。まだ、帰って来ていないのだろうか。
そう言えば、以前も仕事が遅くなったと言っていたことがあった。もう少し待っていれば、帰って来るかも知れない。刹那は床の上で膝を抱えて、沙慈がやって来るのを待っていたけれど、彼はいつまで経っても来なかった。
刹那の脳裏に、ふと、いつか彼が言っていた言葉が浮かんだ。
いつか必ず会うと約束した、沙慈の大切な人。ああ、もしかしたら、沙慈はその人に会えたのかも知れない。約束は果たされて、沙慈はもう、あんな悲しい顔で笑うことはないのかも知れない。
でも、そうしたら……。もう、刹那は沙慈の側に一緒にいて、沙慈と一緒に食事をすることは出来なくなるだろう。何だか、そんな気がする。
途端、以前よりもずっと強烈に心臓が痛くなって、刹那は咄嗟にぎゅっと胸を押さえた。
何だろう、これは。
どこも切れていないし、かすり傷一つないのに、何故か、ぱっくりと割れた胸の傷口からどくどくと血が溢れ出すように、痛い。
思わず膝を抱えるように蹲った、直後。静かな部屋に、唐突にチャイムの音が鳴り響いた。慌てて立ち上がって扉を開けると、そこには沙慈が申し訳なさそうな顔で立っていた。
「ごめん、刹那!仕事が遅くなって!まだ、ご飯食べてないよね?」
「……沙慈」
いつもと変わらない沙慈の様子に、刹那はホッと胸を撫で下ろした。
良かった。沙慈が、帰って来た。
刹那のところに、来てくれた。
そう思うと、先ほどまでの胸の痛みは嘘のように消えていた。その代わり、あの、痛くはないのに、きゅん、と締め付けられるような感覚が再び襲って来た。
「いつものファーストフードも閉まってて、コンビニにもまともなお弁当なかったから。今から、何か作るね」
出来たら、また呼びに来る。
そう言って背中を向けようとした沙慈の腕を、刹那は咄嗟に捕まえていた。
「……刹、那?」
不思議そうな色を浮かべた目が、こちらをじっと見ている。でも、掴んだ腕を離してはいけない。何故かそんな気がする。
それに、今やっと解かったような気がする。刹那が本当は、ずっと食べたいと思っていたもの。
「作らなくていい」
「――え」
どうして、と言い掛けた沙慈の体を、刹那はぐい、と引いて、玄関に招き入れた。
沙慈はまだ、何が何だか、と言う顔をしている。今までにない刹那の様子に気圧されたように、黙って目を見開いている。その顔に、無垢な色を湛えた目に、刹那は自分が抱いているものの正体がはっきり解かった。
「食事はいらない。お前がいい」
「刹……那?」
「お前がいい、沙慈」
「せつ……、ん、ぅ……?!」
そのまま、徐に唇を塞ぐと、彼はびく、と身を固くした。数秒後、我に返ったのか、その腕が逃げようともがいたので、両手で押さえ込んで、抵抗を封じた。
初めて触れる沙慈の唇は、柔らかくて温かくて、舌を捩じ込むと甘いような味がした。
「んん……っ、ん……っ」
苦しそうな声が上がるのにお構いなく、逃げる舌を無理矢理絡ませて、もっともっとと言う衝動に急き立てられるまま、刹那は沙慈の口内を味わい続けた。
散々そうして、刹那の息も途切れ途切れになる頃、ようやく解放すると、沙慈はずるずるとその場に崩れ落ちた。
文句を言おうにも舌先が痺れているのか、息が上がっているのか、唇からは、は、は、と短い息が吐かれるだけだ。
そんな彼を見ても、先ほど自覚した欲求は到底収まりそうもなかった。
刹那は手を伸ばして沙慈を抱き締め、それからそっと床に押し倒して、その首筋にかぷっと歯を立てた。
「……っ!」
一段と大きく、沙慈の体が跳ね上がる。
「せ、刹那……っ」
ぐ、と噛んだ場所に力を込めると、彼は怯えたように身を震わせた。怖がらせたい訳ではなかったので、刹那はすぐに力を抜いて、それから痕のついたその場所を、ゆっくりと舌先でなぞった。
「……っ、ぅ」
何度も繰り返していると、肌の表面が粟立って、沙慈は吐息のような声を上げた。
いつもの沙慈の声と違う。掠れた、聴覚を刺激する声。もっとそんな声が聞きたくて、刹那は更に彼の衣服を緩めて、あちこちにキスを落とした。
一つそうする度、沙慈の体温が跳ね上がる。吐き出す呼吸は荒くなって、こっちが苦しくなるほど。刹那の体温も上がっている。二人で折り重なっていたら、このまま蕩けてしまうんじゃないかと思うほど。
初めて沙慈からあの容器を受け取ったとき、中身を一口食べるごとに、お腹が一杯になった。
今は、それと同じだ。沙慈を味わう度、胸の中が満たされて行く。
「……沙慈」
名前を耳元で囁くと、耳朶から項に掛けてまでが一気に真っ赤に染まった。
空を泳ぐように定まらなかった視線が、おずおずとこちらに向けられる。泣いている訳じゃないのに、濡れているように見える目。お互いの唾液で濡れた唇。首筋には、先ほど自分がつけた噛み痕が残っている。
―これは、俺のだ。
自分のもの。自分だけのものだ。
そのとき、刹那は直感的にそう感じた。
「……ふ、ぁっ」
粘膜の中を蠢く指が敏感な場所を探り当てると、沙慈の喉が仰け反った。小さな動物の鳴き声みたいだ。そんなことを思いながら、その喉に甘く噛み付くと、やがてはその声も上がらなくなって、喉だけがひくひくと震えた。
柔らかい内壁を抉じ開けるように中へ身を進めると、背中に痛みが走った。痛みに耐える沙慈の爪の先が掠った痛みだ。薄い皮膚が破れる度、それに応えるように刹那は沙慈を揺すり上げた。何もかも解からなくなるくらい、夢中だった。
頭の中も、指先も、絡み付く沙慈の体温も、全部熱い。
「……沙慈」
「やっ……、んっ、う」
囁きを落とすと、どく、と中が脈打った。
もう、どこまでが自分の体なのかも、よく解からない。頭の芯が痺れて、視界が真っ白になって行く。耳元を掠める沙慈の声が、一層高くか細くなる。やたらと息苦しくて、窒息してしまいそうだ。目の奥が熱くなって、悲しい訳でもないのに涙が落ちそうになる。浮き出た汗が絡み合っているのに、少しも不快じゃない。
苦しそうに眉根を寄せた沙慈の顔を見下ろして、これが終ったら、またいつものように優しく笑って欲しいと、刹那は場違いにそんなことを考えた。
「い……、たっ」
どれくらい時間が経ったのか。薄暗い部屋で、不意に身じろいだ沙慈が呻き声を上げた。
どうやら、起き上がろうとして失敗したらしい。
「大丈夫か」
慌てて身を起こして手を差し出すと、沙慈は素直にその手を取った。
「全く……、無茶苦茶だよ、きみは」
「ああ……、そうだな」
「謝らないの?」
「謝るようなことはしていない」
「よく、言うよ……」
全く……と、心底呆れたように沙慈は溜息を吐いて、それから小さく肩を竦めた。
でも、その顔には笑みが浮かんでいて、刹那はそれが嬉しかった。
「次は、もっと優しくする」
大真面目に告げると、そう言うことを言っているんじゃないと、ますます呆れたように溜息を吐かれた。
「じゃあ、部屋に戻るよ」
取り敢えず、刹那の部屋でシャワーを浴びて衣服を整えた沙慈は、名残惜しそうな視線を送る刹那を尻目に、そう言った。
折角、胸がいっぱいになって満足したのに。また、きゅん、と胸が痛む。
行かないで欲しい。ここにいて欲しい。
そうは言えないけれど、すぐには頷くことも出来なくて、刹那は無言のまま視線だけを沙慈に向けた。
そして、沈黙が広がったまま、数秒が過ぎた頃。
「……一緒に、来る?」
「……!」
観念したと言うように、沙慈は振り返って呆れたような笑顔を浮かべ、そんなことを言った。
けれど、刹那が間髪入れずに頷くと、急に厳しい顔になって、釘を刺して来た。
「ただし!今日はもう何もしないこと」
「ああ、解かってる」
こく、ともう一度深く刹那が頷くのを確認して、沙慈はホッとしたように、今度こそ優しく笑ってくれた。
「じゃ、行こうか」
「ああ」
今日はもう、何もしない。約束したから、もう沙慈に手は出さない。でも、明日なら大丈夫と言うことだ。
――また、明日。
胸もお腹もいっぱいに出来る。
心の中でそんな期待に満ちた呟きを漏らして、刹那は前を行く沙慈の背中を追い掛けた。
終