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 バスルームでシャワーのコックを捻ると同時に、肢体の上に注ぎ出した熱い湯を浴びながら、沙慈は先ほどまで自分の身に起きていたことを思い浮かべていた。
 つい先ほどまでの、気まずい時間。思い起こす度、苦い後悔が胸を過ぎる。あのとき、扉を開けなければ、あんなことにはならなかったのに。
 今更そんな風に悔いても、どうしようもない。手遅れなのは解かっている。刹那は、怒るだろうか。この、二人だけの部屋に、他の人物を迎え入れたこと。
 それに、あの男は随分と煙草の香りがした。沙慈も刹那も、煙草は吸わない。彼が帰った後、衣服に染み付いた煙草の香りに、沙慈は眉を顰めた。例え微かな香りだとしても、刹那は勘付いてしまうだろう。もう、何度こんな過ちを犯してしまったか。
 ――俺にも、我慢の限界と言うものはある。
 眉間に皺を刻みながら、いつになく真剣な顔で告げられた言葉が、頭を過ぎった。解かっている。いつまでもこんなことが許される訳じゃない。でも、こうして、少しでも彼に気付かれないようにと、無駄な足掻きをしている。湯と共に、煙草の香りを消してしまう為に。

「はぁ……」
 長いシャワーの後、沙慈はタオルで髪の毛を拭きながら、深い溜息を吐いた。もうすぐ、刹那が帰って来る時間だ。このまま、彼に気付かれなければいい。でも、刹那はやけに鼻が効くのだ。そう、まるで猫のように。

「他の男の、匂いがする」
「………!!」
 案じていた通り。帰宅して沙慈の顔を見るなり、開口一番に告げられた台詞に、どく、と鼓動が脈打つのを感じた。思わず血の気が引いて、言葉を失う。
 けれど、いつまでも黙ったままではいけない。
「そ、そう?きみの勘違いじゃ……」
 何とか声を振り絞って言い掛けた言葉は、最後まで口に出来なかった。沙慈の言葉に眉根を寄せた刹那が、こちらに向けて腕を伸ばし、ぐい、と自らの方へ引いたからだ。
「わっ……!」
 ぐるりと視界が反転して、気付いたときには床に押さえ込まれていた。背中への衝撃はあまりなかった。刹那が、倒す寸前で抱き留めたことに気付いて、彼の余裕がまだ失われていないことに、ホッとする。
 けれど、視線をずらして見上げた刹那の目に、びくっと反応してしまった。気配が、かなり険しい。やはり、怒っているのだろうか。彼は、沙慈が息を飲んで見守る中、すっと首筋に顔を埋め、匂いを嗅ぐような仕草をした。
「シャワー浴びたのか」
「あ、ああ」
「何故だ。いつもより早い」
「た、たまにはいいと思って……」
 駄目だ。完全に目が泳いでいる。こんなしどろもどろでは、刹那を誤魔化すどころか、逆効果だ。
 そして、危惧していた通り。沙慈の下手な言い訳に、彼の気配は増々険しくなった。
「また他のヤツを入れたのか。ここに……」
「せ、刹那、ぼくの話を……」
「質問に答えろ、沙慈」
「……っ」
 もがこうとする動きは全て封じられ、完全に押さえ込まれてしまった。見下ろす刹那の目には、確実に怒りが感じ取れる。
 それでも、どうにかしてこの場をやり過ごそうと、沙慈は彼を刺激しないように、殊更ゆっくりと首を縦に振った。
「ああ、入れたよ。でも、それだけだ。今日は、何も……」
「沙慈」
「……い、っ」
 ぎり、と手首に力を込められて、沙慈は眉を寄せた。
 何もかも見透かしているような、刹那の目。もう、ごまかしは効かない。こうなったら、腹を括るしかない。誠心誠意を込めて謝罪しよう。もしかしたら、刹那は許してくれないかも知れないけれど。
「ごめん……、刹那。もう二度としないって、約束したのに」
「……沙慈」
 しおらしい態度で謝ると、険しかった刹那の気配が幾分和らいだ。同時に、手首を強く掴んでいた指先からも力が抜ける。刹那が身を起こしたので、沙慈もゆっくりと起き上がった。

「今日は、何を?」
「う、うん……、ちょっと待ってて」
 促す刹那の言葉に素直に従って、沙慈は枕の下に隠していたものを取り出した。
「これだよ、刹那」
 差し出したものを見て、刹那ははぁ、と深い溜息を吐いた。沙慈が手にしているのは、怪しげな金色のブレスレットだ。タグには開運の二文字がでかでかと書いてあるけれど、果たして効果はあるのかないのか。どちらにしろ、怪しいものに違いはないだろう。
「いくらした」
「ええと……二万円くらい、かな」
 沙慈の返答を聞くと、刹那は長く深い溜息を吐き、それから顔を上げて声を荒げた。
「だから言ったろう。訪問販売には、あれほど気を付けろと!」
「ご、ごめん。本当にごめん、刹那!」
 毎回販売員の押しに流されて商品を購入してしまう沙慈に、刹那は呆れ顔だ。もう買わない、引っ掛からないと約束したのに、また破ってしまった。扉を開けたが最後、どうしても断れないのだ。
 沙慈がしゅんと肩を落としていると、やがて刹那がふっと笑う気配がした。
「もういい、沙慈」
「せ、刹那……」
「お前のそう言うところも、好きだ」
「刹那……」
 優しく笑い掛けられて、沙慈は胸がきゅんとするのを感じた。こんなに沙慈のことを許してくれる彼を、もう怒らせたくない。

(今度こそ気を付けるよ、刹那)
 胸の中でそんな誓いを立てて、沙慈は刹那に向けて笑みを返した。