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プトレマイオスと言っただろうか。
一度は逃げ出したはずの場所に、再び戻るしかなかった。
事情を聞かれた後、沙慈はまたあの独房へ入れられた。
刹那が顔を出したのは、それから暫く経ってからだった。
そう言えば、彼の姿だけなかった。何処かへ、行っていたのだろうか。

「沙慈・クロスロード、事情は聞いた」
「……刹那」

彼に向けた目は、とっくに泣き腫らして真っ赤になっていた。
何か言われるのかと思っていたけれど、彼はただ無言で視線を向けただけだった。

「刹那!」

そのまま、出て行こうとこちらに向けられた背中に、沙慈は縋り付くような声を上げた。
振り向いた彼は、この前見たのと同じように、どこか哀れむような目でこちらを見ていた。

「せつ…」
「俺に、お前の気を紛らわしてやることは出来ない」
「…っ刹那、わ、かってる…解かってるよ」

今まで散々詰った彼に、慰めを与えて貰おうなんて思っていない。
第一、そんなのものはただの気休めだ。
それに、慰めを与えられるべきなのは自分じゃない。解かってる。
でも…。

「でも、まさかこんなことに…」

こんなことになるなんて、考えもしなかった。
自分の身を守るため、やるべきことをやっただけだと思っていたのに。

「これが、きみたちのいる世界なのか」
「……」
「だとしたら、ぼくには、耐えられない」

顔を塞いで、蹲るように沙慈は膝を抱えた。
泣いたって解決しない。解かってる。でも、重過ぎる罪悪感に今はまだ耐えられない。
何かをするべきなのか。頭ではそう思い始めているけれど、足も手も、鉛のように重い。

そんな中、ひやりとした感触の刹那の手が、不意に沙慈の首筋に手袋越しに触れた。
びく、と身を強張らせて顔を上げる。
いつもと変わらない、刹那の顔。
お前も同じじゃないかと、そんな台詞を吐かれても可笑しくないのに。
刹那。
いっそ、このまま殴り付けてくれたら。
そんな風に一瞬だけ願う気持ちが、撫でるように頬を滑る手の平に打ち消される。

「刹那…」

涙に濡れた目を上げると、彼はまたじっと沙慈の方を見詰めていた。
以前、泣き叫びながら彼を責めたとき、刹那は何も言わなかった。
その後も、どんなに棘のある言葉を投げ付けても、苦しみを露にしても、彼は何も言わなかった。
もしかしたら刹那は、誰かを慰める言葉すら、知らないのかも知れない。
今までも、ただ黙って、こうして負の感情を受け入れて来たんだろうか。恨んでくれていいって言ったのも、きっと。

そんなことを思い巡らしていたら、そっと刹那の体温が側に寄るのが解かった。
そのまま、いつか触れたように、刹那の唇がそっと沙慈に触れた。
ゆっくりと触れて少しだけ離れ、それから一段と強く押し付けられる。
ぎこちないキスだ。ただ、体温を感じているだけのような。
沙慈は無意識に触れ合うだけの感触を求めようとして、刹那の唇を柔らかく噛んだ。
途端、彼が驚いて顔を離す。でも、沙慈は刹那を求めるように今度は自分から顔を寄せた。
刹那は今度は逃げなかった。沙慈に応えるように、ゆっくりゆっくり、口付けを深くしていく。
何をしているんだろう。こんなことをしても、何にもならない。
解かっているのに、目の前の存在に、ただみっともなく縋り付いていたかった。
気が紛れることはない。刹那の言った通りだと思う。けど…。

「刹那…」

ぎゅっと、しがみ付くように彼の腕を掴み、沙慈は刹那の胸元に顔を埋めた。

「刹那、ぼくを…滅茶苦茶にしてくれ、何も、解からなくなるくらい」
「……っ、沙慈……」

絞り出すような声は嗚咽に混じって、刹那に届かなかったに違いない。
だけど、彼は驚いたように目を見開いて、息を詰めた。
こんなことは、間違っている。言うべきじゃない。
この期に及んで、痛みから逃げようとしている。
でも、何でもいい、酷くされた方がいい。無茶苦茶にされてしまった方がいい。
その方が、少しでも罪悪感が薄れるから?
刹那はきっと、解かっているんだ。戦う痛みも、傷付ける痛みも。
でも、それでも何かを変えようとして戦っている。彼を責めるべきじゃなかったと、そのとき初めて思った。

刹那は、当然、逃げ道をくれたりはしなかった。
仮初の罰など与えてはくれなかった。
ただ、嗚咽を上げる沙慈を無言のまま抱き寄せて、そっと背中に腕を回してくれた。