1
仕事場からの帰り道。マンションの駐車場を横切って部屋に帰ろうとしていた沙慈は、ふと、何気なく電柱の下に目をやり、二の足をぴたりと止めた。
その場所に、朝は置いていなかった小さな箱のようなものが見えたからだ。
(……ん?)
あれは、何だろう。
ここからではよく見えないけれど、何だか気になる。
怪訝そうに眉を顰めながら側に歩み寄ってみると、箱の中には明らかに動物と見て解かる物体が、寒さを凌ぐように丸くなって蹲っていた。
覗き込むと耳と尻尾が見えたけれど、どうやら犬ではないらしい。
「何だろう…?猫、かな?」
黒い毛並みに、赤みがかった茶色の大きな目。まだ子供だ。
何故か、首には赤いマフラーが巻いてある。
柔らかそうな毛に触れようと、何気なく手を差し出した直後。
ハッとしたように顔を上げた猫が急に爪を振り上げ、沙慈は思いっ切り手を引っ掻かれてしまった。
「い、痛っ!」
咄嗟に手を引っ込めて引っかかれた傷跡を見詰める。
思い切りやったのだろう。手の甲には薄っすらと血が滲んでいた。
迂闊に手を差し出した自分も悪いけど、いきなり引っ掻くなんて。
「全く…」
警戒心丸出しでこちらを見詰める目を見て、沙慈は深い溜息を付いた。
どちらにしろ、このマンションはペット禁止なのだ。
沙慈は心を鬼にしてその場から立ち上がり、背を向けて歩き出した。
でも、数歩進むと、すぐに気になって、うっかり振り向いてしまった。
途端、バチ、と思い切り目が合う。
(………う)
何だか目を逸らせない引力のような物を感じて、沙慈は足が石になったようにその場から動けなくなってしまった。
(うう……)
これが、捨てられた子犬のような目と言うヤツか…。いや、猫だけど…。
結局、どうしてもそのままにしておくことは出来なくて、沙慈は渋々その子を箱の中から抱き上げた。今度は引っ掻かれることはなかった。
「男の子みたいだね、きみ」
そのまま連れて帰ろうとした沙慈は、ふと箱の中に小さなメモが添えてあるのを見つけた。
そこには雑な字で「刹那」とだけ書き殴ってある。
「きみの、名前かな。刹那、か…。ぼくは沙慈だよ。沙慈・クロスロード」
簡単な自己紹介を済ませると、沙慈はそのまま猫を抱き抱えて、周りの住人にバレないよう、足早に部屋へと向かった。
「お腹、空いてるよね?ミルクとか、飲むかな」
部屋になだれ込むように入って鍵を掛けると、沙慈は真っ先に冷蔵庫からミルクを取り出して刹那の目の前に翳した。
ミルクを見た途端、何だか刹那の目が輝いたように見える。それに、早く飲ませろと言わんばかりに沙慈の足元に纏わり付き始めた。
「わ、解かったよ、今あげるから」
急いで戸棚から深めのお皿を取り出し、たっぷりとミルクを注いであげた。
でも、折角注いだのに、刹那は匂いを嗅いだだけで口を付けようとしない。
(ミルク、好きじゃないのかな)
いや、今はお腹が空いていないのかも知れない。
放っておけば、その内飲むだろう。
沙慈はそう思って、着替えを済ませて自分の夕食の支度を始めた。
食事の後。
入浴するついでに、刹那のことも洗ってあげようと思い、沙慈は彼の姿を探した。
「刹那、刹那?」
呼び掛けても応答はない。でも、すぐに見つけられた。
刹那は、まだお皿の前にちょこんと座ったままだったからだ。
それに、何度か小さな手を差し出してお皿を引っ掻く素振りを見せたり、何度も匂いをかいだり、どう考えても動きが可笑しい。
「…きみ…もしかして…」
不審に思ってそのまま見ていていると、終いに刹那はミルクが並々と入った皿の中にガバッと顔を突っ込んでしまった。
「ああっ、だ、駄目だよ!」
驚いて慌てて駆け寄り、抱き上げると、首に巻いてあった赤いマフラーまでミルクですっかり濡れてしまっていた。
すぐにタオルを取って刹那の濡れた顔やミルクの飛び散った床を拭きながら、ある仮説が頭の中に浮かび上がった。
「刹那、きみ…もしかして、自分で飲めないの?」
そう言うと、刹那はこちらの言葉を理解したかのように、小さく鳴いた。
「知らないよ、ミルクの飲ませ方なんて」
職場の人に聞こうか。いや、でもマンションはペット禁止なんだ。迂闊に誰かに言う訳に行かない。
困り果てたまま、沙慈は取り敢えず指先でミルクを掬って刹那の口元に寄せてみた。
その、途端。
「……っ!!」
刹那が口を開け、沙慈の指に思い切り噛み付いた。
慌てて引っ込めると、恨みがましいような目で見られる。
そんな顔されても、沙慈だって痛いのは嫌だ。
でも、このままじゃお腹が空いて死んでしまうかも知れない。それは、嫌だ。
仕方なく、沙慈は傷が出来るのを覚悟でミルクをもう一滴掬った。
その後も。
「せ、刹那、噛み付いちゃ駄目だよ」
そう言い聞かせても、ミルクを飲むのに必死な刹那は全然言うことを聞かず、食事の度に沙慈の指先は刹那の噛み痕でいっぱいになってしまった。
でも、それだけならまだいい。
例えば、朝方などは…。
「痛い!」
物凄い痛みで目を覚ますことがよくある。
お腹が空いた刹那が我慢出来なくなって、沙慈のベッドに上がりこんでは首筋や頬に噛み付くからだ。
噛み痕を見た職場の人にはあらぬ誤解をされるし、指の傷はひりひりするし、全く大変な目に遭っている。
でも、満腹になった後、沙慈の膝で寝てしまう刹那の寝顔を見ていると、どうしても捨てる気にはならなかった。
11.13