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それからと言うもの、沙慈は仕事が終わると真っ直ぐ家に帰るように努めていた。
刹那がお腹を空かせて玄関で待っていると思うと、本当に気が気じゃないからだ。
「沙慈、たまには飲みに行かないか」
その日も急いで帰り支度をしていると、いつもよくしてくれる先輩がそんな誘いを掛けて来た。
沙慈だって、たまには皆と一緒に騒ぎたいと思うけれど。あの刹那の柔らかい毛並みとか、いつも少し不機嫌そうな目とか。たまに見せる寂しそうな様子を思い浮かべると、迷いなんかすぐに消えてしまった。
「すみません、又誘って下さい」
「そうか。まぁ、あれだ…、頑張れよ」
彼は何を思ったのか、意味ありげな笑みを浮かべて、ポンと沙慈の肩を叩いた。
多分、連日首に付けて来る噛み痕やら痣やら…。それに、いつも提げているネックレスも、最近刹那に預けているのでしていない。周りの皆からしたら、彼女と何か揉めていると誤解するのも無理はない。
「は、はい…、まぁ…」
ムキになって誤解を解くのもなんだったので、沙慈は曖昧な返事を返して、会社を後にした。
「刹那、ただいま」
言いながら扉を開けると、彼はいつものように玄関で大人しく待っていた。
沙慈の顔を見るなり、空になったミルクの皿を手で引っ掻くような仕草をしてみせる。
「うん、解かってるよ、ちょっと待ってて」
急かす刹那の視線を感じながら、沙慈は急いで着替えをしてミルクを冷蔵庫から取り出した。
お皿に注ぐと、刹那はすぐに夢中になってミルクを飲み始めた。
その手触りの良い毛並みを手の平で撫でながら、沙慈も満足そうな笑みを浮かべた。
最近、彼は前よりずっと懐いてくれて、撫でても引っ掻かれたりすることは殆どなくなっていた。
「刹那、もう寝るよ」
それに、寝る前に呼ぶと、ちゃんと素直にベッドに入ってくるようにもなっていた。
トン、と床を蹴ってベッドに上がりこんだ刹那を自分の毛布に入れて、沙慈はホッとしたように目を閉じた。
でも、その日の夜中。
不意に寝苦しさを感じて、沙慈は目を覚ました。
「ん……」
きっと、あんまり寝相の良くない刹那が、また首の上に乗っかっているのだろう。
このままだと、よく眠れなくて寝不足になってしまう。
仕事で注意散漫になって怒られるのはご免だ。
可哀想だけど、退かすしかない。
まだ寝惚けた頭でそんなことを思っていた沙慈の耳元に、微かな呼び声が聞こえて来た。
「沙慈。沙慈・クロスロード」
「う…、うー…ん?」
誰かが、自分の名前を呼んでいる。
刹那。刹那の声だ。
いや、違う。刹那は猫だから、自分の名前を呼んだりしない。
でも、何だか、懐かしいような。
「沙慈・クロスロード、起きろ」
「……?!」
そこで、沙慈は夢見心地から一気に我に返った。
この部屋には、誰もいないはずだ。
じゃあ、この声は一体?!
慌てて起き上がろうとして、自分の体が身動き出来ないことに気が付いた。
(え、何…だ?!何が……)
何がなんだか解からないまま目を見開くと、暗闇に薄っすらと人の顔が浮かび上がった。
身動き取れないのは、どうやらその人物が上に乗っているかららしい。
目を凝らしてみると、何となく男だと言うことは解かった。
「だ、誰だ、きみは!何で、ここに!」
そこまで叫んで、ハッとした。
目が慣れて来たお陰で、彼の首筋に巻かれている赤いマフラーが見えたからだ。
あれは、間違いない。刹那ものだ。どうして…。
「刹那、刹那はどこだ!」
「刹那は、俺だ」
「……?!」
必死に声を荒げると、その人物…恐らく自分と同じ年くらいの男は、物凄く真剣な顔で即答してみせた。
「………」
突然の事態に、沙慈が状況を飲み込むまで、優に数分は掛かった。
「刹那…。きみ、本当に、刹那…?」
「そうだ」
恐る恐る尋ねると、彼はこくんと頷いた。
あまり表情に変化がない。でも、あの猫と同じ黒い髪。
それに、瞳の中を覗き込むと、確かに刹那と同じ目の色をしていた。
「そ、それで…、どうして、その姿に?」
「そんなことはどうでもいい」
「い、いや、かなり…大事なことだと思うよ」
「そんなことはない」
当然の疑問は即座に却下されて、沙慈はぐっと言葉を飲み込んだ。
じゃあ、一体どうしてこんな体勢になっているんだ。
「刹那、どうして…」
口にしようとした疑問は、続く刹那の言葉に遮られた。
「沙慈・クロスロード。お前は俺を拾ってくれた。だから、お前は俺のものだ」
「……え?」
「お前は、俺のものだと言っている」
「……??」
又しても、沙慈の思考は停止しかけた。
彼は一体、何を言っているのだろう。
でも、刹那から漂う雰囲気から何だかただらなぬものを感じて、沙慈はよく回らない頭で必死に抗議を試みてみた。
「い、いや…、あの、それって、違うんじゃないかな…。こう言う場合、普通は逆って、うわっ!」
けれど、突然ぐいっと衣服を捲り上げられて、思わず短く悲鳴を上げる。
慌ててもがこうとすると、腕が掴まれてベッドに押さえ込まれた。
元々腕っ節に自信はないし、最初からマウントポジションを取られてるし、どう考えたって分が悪い。
「せ、刹那!離してくれよ!」
「じっとしていろ、すぐ終る」
「……え、え?」
「……」
「い、一応聞くけど…、な、何が…?」
「……」
顔を引き攣らせつつ問い掛けても、返って来るのは沈黙ばかりだ。
「わっ!」
続いて、首筋に濡れた感触が触れて、沙慈は引き攣った声を上げた。
「刹那、ちょっと、待っ…、ん…、むっ!!」
抗議の声は彼の柔らかい唇に塞がれて、最後まで口にすることが出来なかった。
何だか解からないけれど、刹那と、彼とキスをしてる。
一体、何が起きているんだ。
何で、こんなことになったんだ。
半ばパニックになりながら思い巡らしたけれど、解かるはずもない。
「あ……っ?」
やがて、刹那の手の平が這った場所にぞくりと痺れが走って、沙慈は先ほどよりも懸命にもがこうと努めた。
「せ、刹那!駄目だって!」
必死に顔を逸らして叫んだけれど、刹那の手は止まらない。
胸元に伸びて来た指に、プツ、とシャツのボタンが外されて、思わずぎゅっと目を閉じた、その途端。
突然、場面が切り替わったように辺りの景色が弾けた。
「……え?」
(あ、あれ…?)
目を見開いて周囲を見渡すと、先ほどまで沙慈の上に圧し掛かっていた男は、いつの間にかどこにもいなくなっていた。
隣を見ると、刹那が不思議そうな顔をして自分を見ている。
何だろう、今のは。
まさか、夢……?
(な、何だ…夢、だったのか…)
「そうか…、そうに決まってるよね、刹那…」
刹那が人間だったなんて。
あんなことをするなんて、そんなのあり得ない。
だいたい、あんな夢をみるなんて、どうかしている。
それに、やたらと生々しかった。まだ首筋に、彼の柔らかくて温かい感触が残っている。
あれが夢でホッとしたのは本当だったけれど、それからも何だか妙に落ち着かなくて、沙慈は動揺を隠すように毛布に潜り込んだ。
11.14