4
―沙慈・クロスロード。お前は俺を拾ってくれた。だから、お前は俺のものだ。
仕事中、頭の中にそんな言葉が聞こえて、沙慈はハッとしたように顔を上げた。
思わず周りを見回したけれど、当然、声の主などどこにもいない。皆、自分の仕事を一心にしているだけだ。
(今の声は……)
この前みた夢の、刹那の声だ。
いや、そうじゃない。刹那は猫で、あんなこと言う訳ないのに。
けれど、耳元に聞こえた声も触れて来た唇の感触も、あまりにリアルだった。
「何ぼーっとしてるんだ、新入り」
そこで、先輩のミヤサカにポンと肩を叩かれて、沙慈は我に返った。
「あ…、す、すみません…」
しっかりしないと。あんなもの、ただの夢なんだから。
そう思いながらも、デスクに頬杖を突いて、沙慈は深い溜息を吐き出した。
その日も職場から真っ直ぐに帰ると、沙慈は玄関で待っていた刹那の頭を撫でた。
「刹那、ただいま」
沙慈が笑みを浮かべると、刹那は甘えるように手に顔を寄せて来た。
けれど、すぐに強請るようにミルクの皿を小さな手で引っ掻いてみせる。
「解かってるよ、刹那」
急いで冷蔵庫からミルクを取り出すと、お皿にたっぷりと注いであげた。
途端、夢中になって飲み始めた刹那を見て、沙慈も満足そうに笑みを浮かべた。
けれど、安心すると同時に、急に喉が渇いていることに気付いた。急いで帰って来たせいだろうか。
一刻も早く喉を潤したくて、沙慈は冷蔵庫に戻したばかりのミルクを再び取り出した。
もう残り少なくなっていたので、ミルクのパックに直に口を付け、喉の奥にグイと流し込む。
ひやりと冷たい液体が流れ込んで来て喉が潤うと同時に、刹那も最後の一雫を皿の中から舐め取った。
ようやくホッと一息吐いて、シャツを脱ごうと襟元に手を掛けたところで、刹那がおかわりを催促するように皿を何度も引っ掻いているのが目に留まった。
「ああ、もっと欲しかったのかな?」
刹那も、拾って来たときより体が一回りほど大きくなっているから、そろそろいつもと同じでは足りないんだろうか。
でも、パックの中身はたった今自分が飲み干してしまった後だ。
「ごめん、刹那。ミルクはもうないんだよ」
刹那と目を合わせるように床に腰を下ろし、空になったパックを見せ付けるように、皿に向けて逆さにしてみせる。
そこから何も出て来ないのを確認した刹那は、急に不満そうに喉を鳴らした。
「今買って来てあげるから、ちょっと待っ、わっ?!」
なだめるように言い掛けた沙慈の言葉は、急に凄い勢いで飛び付いて来た刹那のせいで、最後まで口にすることが出来なかった。
「せ、刹那っ!!」
まだ仔猫とは言え、本気で体当たりされると結構衝撃がある。
驚いたのもあってか、沙慈は勢い余って思い切り床に倒れてしまった。
その上に、刹那が必死な様子で圧し掛かって来る。
「こ、こら、刹那!もうないんだって!」
慌てて赤いマフラーを掴んで引き剥がそうとしたけれど、本気で引っ張ったら苦しいだろうな、と言う躊躇いからか、上手くいかない。
その間に、刹那は匂いを嗅ぐように、ぐい、と沙慈の側に顔を寄せた。
「…!!せつ…っ」
直後、急に温かい舌先でぺろりと口元を舐められて、沙慈は引き攣った声を上げてしまった。
たった今、彼のお目当てのミルクを飲み干したばかりの口元から、ほんのりとその香りがするせいなのだろうか。
突然の行動に、沙慈は完全に面食らってしまった。
しかも、一度や二度ではない。いつも必死にミルクの入ったお皿を舐めているのと同じように、唇に吸い付いて、一心に舐めている。
「…っ、せつ、な!」
しかも、声を上げる為に開いた唇の間にまで、刹那の舌が割り入って来る。
抵抗出来ないまま、沙慈は思わずぎゅっと目を瞑った。
「ん……っ、ん?!」
(こ、この…感じは…?)
柔らかくて温かい感触。以前も触れたことのあるような気がする。
そうだ、あの夜、夢の中で出て来た青年と…。
それに、いつの間にか体が押さえ込まれて動かせないような…。
異変に気付き、固く閉じていた目を開いて、沙慈は愕然とした。
「んん…、んっ?!!」
自分の上に圧し掛かって、夢中でキスをしているのは、先ほどまでそこにいた仔猫ではなかった。
(こ、この人は!!)
今沙慈の上に馬乗りになっているのは、あの夢に出て来た青年に間違いない。
確かに今まで、刹那がそこにいたのに。まさか、本当に彼が刹那なのだろうか。
そうこうしている内に、襟元に彼の指先が掛かり、引き抜こうとして緩めていたネクタイが音を立てて抜かれた。
空を切るような鋭い音に、びくっと身が強張る。
「…っ、は、離してくれ!」
我に返って、渾身の力を込めて体を押し返すと、沙慈は安堵の吐息を吐いた。
突き飛ばしたとき、結構派手な音がしたけれど、それには構わず、濡れた唇を手の平で拭う。
呼吸を整えて顔を上げると、目の前には、凄く不服そうな顔をした青年の姿があった。
困惑する沙慈にはお構いなく、彼も唇を拭うと、キッと鋭い視線を送って来た。
「いきなり…何をする」
「そ、それは、こっちの台詞だよ!」
怒鳴った途端、青年がゆっくりと立ち上がったので、沙慈も慌てて立ち上がって、距離を取るように一歩後退した。
「き、きみは…、誰だ」
「この前も言った。刹那だ。刹那・F・セイエイ」
「刹那・F…セイエイ…?」
自分が知っているのは、彼のファーストネームだけだ。
でも、この彼の様子は、とても嘘を吐いているように見えない。
だからって、すぐに納得出来ることではないけれど…。
「一体、どう言う…」
「そんなことより……ミルクは」
「……え」
「ミルク……」
「え、あ…はい…」
ぼそ、と呟いて視線を床の皿に移した刹那は、そのまま黙り込んでしまった。
とてもじゃないけど、色々尋ねる雰囲気じゃない。
そう言えば、ミルクのお代わりを欲しがって、あんな行動に出たのだった。
「わ、解かったよ。今、買ってくるから」
頭の中は凄く混乱していたけど、このままこうしていても仕方ない。
沙慈は緩んだ衣服を直して、財布を掴んで外へ飛び出した。
駐車場へ出て車へと走っていると、今頃になってどくどくと心臓の音が煩く鳴りだした。
(何なんだ、あの人は…!)
一体、何だって言うんだ。
とにかく、帰ったらちゃんと事情を聞こう。
場合によっては、家にだっておいておけないかも知れない。
取り敢えず、こんなにも鼓動が煩いのは、慌てて走っているからだ。
何も、先ほどまで交わしていたキスのせいじゃない。そんなことは…あり得ない。
ひたすら自分に言い聞かせながら、沙慈は夜のコンビニへと足を進めた。