「あの人って…誰なんだよ」
「誰でもいいだろ、お前には…」
「ロックオン!」
「…お前の、知らない人だよ」
店の閉店後。
先ほど、ハレルヤと交わした会話を思い浮かべて、ロックオンは一人頭を抱えていた。
確実に、言い方を間違えた。お前なんか嫌いだし好みのタイプでもない。だから駄目なんだと、そう言えば良かった。それなのに、あの言葉は…。あの人のものでなければ、お前のものになっても良いと、言っているみたいだ。ハレルヤがどう取るかは解からないが…。
あの、最後まで何か言いたそうにしていた目が気になる。ロックオンは黒い手袋を嵌めた手で、髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き上げた。
だったら、正直に言えば良かったのか。俺に係わるな。人に胸を張って言えないような仕事も、ずっとしていた。両親が亡くなって、あの男の元に来てからは、ずっとそうだった。今は、もうそんなこともなくなったけれど。仕事でなら、誰にでも体を投げ出していたような男を、どう思う。だから、お前は係わるな…。
いや、言っても聞かないだろう、ハレルヤは。それがどうしたと一喝されたら、二の句が継げなそうだ。いつの間にか、身動きが取れなくなっている。
何だか、嫌なことが起きそうだ。胸の中に沸き上がった不安は漠然としたものではあったが、見て見ぬ振りが出来ないほど大きくなっていた。
その数日後。
「久し振りだね、ロックオン」
「あ……」
突然店を訪れた人物に、ロックオンは内心の動揺を隠せず、目を見開いた。
「…オーナー、何故…」
そう呼ばれた男は、ロックオンに向けて紳士的な笑顔を作った。
「何、きみの顔が見たくなったのだよ」
静かな声と冷ややかな瞳の、長身の男。長めの髪の毛を後ろで束ねている。彼の立場を考えると、まだ若いと言える部類に入るが、その貫禄と落ち着きは見るものを萎縮させるのに十分だった。ざわめいていた店の中が、一瞬シンと静まり返る。
「ご連絡くらい下されば…」
「いや、すぐ帰るつもりだから、構わない」
ふ、と綻んだ口元に、ロックオンは表情を強張らせた。この、食えない笑みは嫌いだ。今でも、無意識に体が竦んでしまう。とっくに、慣れたものと思っていたのに。
(あいつのせいか…)
内心で呟いたそのとき。
「ああ……」
男は顎を指先でいじりながら店内を見回し、店の奥で友人と飲んでいたハレルヤに目を留め、興味深そうに言った。
「なるほど、あれがハレルヤか。話は聞いているよ」
「…情報が…お早いことで」
どく、と鼓動が跳ねたのを堪えて、ロックオンは笑みを浮かべた。こうやって取り繕うことには、慣れているはずなのに。今だってきっと、完璧な笑みだ。何故、ハレルヤにだけは…。軽く唇を噛んだそのとき、男の視線に気付いて、ハレルヤがこちらを見た。彼は、ロックオンと隣に立つ男を認めた途端、挑戦するような、射抜くような目で睨み付けて来た。後にも先にも、この男にそんな挑戦的な態度を取ったものはいないだろう。度胸云々の問題ではない。若さゆえ、怖いもの知らずなだけだ。けれど、それだけに、力のある目だ。
自らの背筋に、ぞく、と悪寒に似た何かが走り抜けるのを、ロックオンは素知らぬ振りでやり過ごした。
「まるで毛色の変わった仔猫だ。金の瞳がよく似合っている」
勿論、若い男に睨まれたくらいで、どうと言うことはない。男は唇を斜めに歪め、嘲るように笑った。
「無礼を…謝罪します。彼は後で出入り禁止にでもに…」
「その必要はない。ただ、魅力的だと言っているのだ。きみが、心を動かされるのも解かる」
「冗談は止めて下さい、そんなことは…」
「そうか、それならいい」
耳元にそう囁くと、扉の向こうに消えて行った影を見送って、ロックオンはぎゅっと拳を握り締めた。
「お前の言ってたの、あいつか」
「…!」
夜明け近く。店を閉めて裏口から出た瞬間、低く暗い声に呼び止められた。声の主を確かめるまでもない。
顔を上げると、予想通りの人物が薄明かりの中に立っていた。
「何のことだ」
視線を逸らして、扉に鍵を掛けながら、ロックオンは素っ気無く返答を返した。ハレルヤから漂う雰囲気が一気に険しくなる。
「とぼけるなって言ってんだろ、お前、あいつと寝てやがるのか」
まただ。直接的な言葉に、ロックオンの心臓の音が早くなる。ハレルヤの紡ぐ言葉に、自分を保っていられなくなる。けれど、心を許す訳にはいかないのだ。
「…プライベートに立ち入るな、ハレルヤ」
「黙れよ…」
「お前は何だ?俺の恋人でも何でもない。ただの客だ、それなら…」
「黙れよ、俺の質問に答えろ!」
「ハレルヤ!!」
怒気を孕んだ怒鳴り声が、静かになった辺りの空気を引き裂いた。ハッとしたように顔を上げた次の瞬間、あっと言う間に体が捕えられて、ロックオンの体は背後の壁に叩き付けられた。
「ぐ……っ!」
冷たいコンクリートに背中を強く打ちつけ、衝撃に呻く間もなくハレルヤの体が圧し掛かる。両足を割って押し入れられた体に、ロックオンはびく、と四肢を引き攣らせた。
「あいつと、寝たのか。ロックオン」
間近でこちらを睨み付ける目に、体が無意識に恐怖を感じて竦み上がる。襟首を掴み上げられて、息が詰まった。
「…離せ、ハレルヤ」
やっとのことで吐き出した抗議の声には、力がなかった。
「答えろ。でないと、このままヤるぞ」
「強姦罪で訴えるぞ。いいのか、ハレルヤ」
「今脅しているのは俺の方だ。ここで俺に犯されるか、答えるか。どっちだ、ロックオン!」
「ハレルヤ…」
あまりの激しさに、それ以上の言葉を失う。激しく昂ぶらせた剥き出しの感情を、隠そうともしない。
片方しか見えない金色の目が、怒りと嫉妬の色で生き生きと輝いて、ロックオンはそのあまりの鮮明さに息を飲んだ。
ややして、ようやく昂ぶった気持ちを抑えると、ロックオンは抑揚のない調子で静かに口を開いた。
「ああ…寝たよ」
「……!!」
すっとハレルヤの気配が強張り、襟首を持つ手に力が籠もった。一層息が詰まる。
眉根を寄せて耐えながらも、ロックオンは彼の金の瞳から目を逸らさなかった。
「あいつが、好きなのか」
「ああ、好きだ。俺が好きなのは、あの人だ。お前じゃない」
「……」
「好きだから、寝たんだ。それだけだ」
「好きだから…」
「ああ…」
そこで、ハレルヤが息を飲んだのが解かった。少しずつ、襟首を掴んだ手から力が抜ける。
そうして、長い間の後。
「そうかい。解かったよ、ロックオン」
どこか冷めたような、興味を削がれた声で告げて、ハレルヤはロックオンから身を離した。
彼の温かさがゆっくりと離れ、やがて完全にその場から消えてしまうと、ロックオンは力が抜けたようにその場に座り込んだ。
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