家庭教師のバイトでもしようか。
大学最後の夏休み中、そんなことを思ったのが運のつきだったんだろうか。
けれど、初めて会ったそのとき。目の前で少し気恥ずかしそうに目を伏せている男は、どこからどう見ても善人そのものだった。
「アレルヤ・ハプティズムです。よろしくお願いします、先生」
「ロックオン・ストラトスだ、よろしく。ロックオンで、いいぜ」
先生なんて呼ばれ慣れていない。
軽い口調で言うと、彼は緊張が解けたように顔を綻ばせた。
「そうもいかないですよ…。先生は、先生ですから」
「そうか?」
律儀な男だ。生意気なガキだったらすぐ止めようかとも思っていたけれど、こんな大人しそうなヤツとなら、上手くやれそうだ。
そう思って、ロックオンはホッと胸を撫で下ろした。
アレルヤが住んでいるのは、大きな一戸建てだった。
てっきり貧乏学生か何かだと思っていたので、その豪邸ぶりに驚いたものだ。
いいとこのお坊ちゃんてとこだろうか。
「ええと、アレルヤ」
「はい」
「今日、ご両親は?」
いるなら、挨拶しないと。
そう思って尋ねると、彼は少し困ったように笑った。
「ああ…。この家には、ぼくと弟しかいないんです」
「こんな、デカい家にか」
「ええ…、色々事情がありまして。だから気兼ねしないでやって下さいね」
「ああ、そりゃ…どうも」
実際、気を使わないのは助かる。
彼の言う通り、何やら深い事情でもありそうだが、知る必要はない。
「その内紹介してくれよ、その弟さんとやらも」
「ええ、その内…」
そう言って、彼はにこやかに笑った。
その時、ロックオンがもう少しアレルヤと言う男を知っていたら、その笑みが皮肉めいていたことに気が付いたかも知れない。
二階にある部屋へと案内されると、ロックオンは落ち着きなく辺りを見回した。
大きなベッドやら高そうな家具やら、ワンルームで一人暮らしをしているロックオンには未知の部屋だ。
「そんなに、見ないで下さいよ、先生」
首が一回転しそうなほど見回していると、アレルヤに窘められてしまった。
「ああ、悪い」
ふかふかのソファに腰を下ろして、ロックオンは苦い笑みを浮かべた。
それにしても、どう見てもお金には困っていなそうだ。
どうして、自分なんか雇う気になったのだろう。
「なぁ、アレルヤは、何で…家庭教師なんか?いっそもっと名門の塾とかの方が…いいんじゃないのか。まぁ、俺がそんなこと言うのもなんだけど」
「言ったでしょう、弟と二人暮らしなんですよ。だから、出来るだけ家にいたいんです」
「そうか…」
「それに、あなたとは上手くやっていけそうな気がするから」
「あ、ああ。そう、だな」
穏やかに微笑まれて、ロックオンも悪い気はしない。
それ以上余計な詮索をすることは止めることにした。
それから少しだけ他愛もない話をして、すぐに勉強に取り掛かると、あっと言う間に決められた時間になってしまった。
「今日はありがとうございました。気を付けて帰って下さいね」
「ああ、そっちこそ、お疲れさん。またな」
軽い挨拶を交わして、見送るアレルヤに背を向ける。
何だか、弟でも出来たみたいだ。素直で可愛い弟だ。
そんなことを思いながら、ロックオンは足取りも軽く帰路へと付いた。
ずっと見送っていたアレルヤは、ロックオンの背中が見えなくなると、そっと踵を返し、玄関の扉を閉めた。
広過ぎる玄関。目の前には、大きな鏡が置いてある。
そこに映し出された自身の姿を認めると、アレルヤはそっと手を伸ばし、鏡を手の平でなぞった。
「詰めが甘いって?ハレルヤ……いいんだよ、これで」
そして、誰かに語りかけるように穏やかな声で言い、その唇を笑いの形に歪めた。
「今は、まだね…」
柔らかく紡がれた彼の言葉は、当然、ロックオンの耳に届くことはなかった。
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